Silk Roads: the Routes Network of Chang’an-Tianshan Corridor ( China, Kazakhstan, Kyrgyzstan ) OUV(ii)(iii)(v)(vi)
2014年世界文化遺産登録
■大航海時代より以前、人々は道を拓き、世界が交流した
長安-天山回廊の交易路網は、ローマからアジア各地、日本までを相互に結び、文明発展の一端を担った「シルクロード」の一部として世界遺産に登録されています。
その距離は、中国の洛陽や長安から河西回廊を抜け、天山山脈の南北を通り中央アジアのタラス渓谷へと至る、総延長距離約8700㎞!
登録されたのは全33件(うち中国が22件、カザフスタンが8件、キルギスが3件)の構成資産であり、交易路沿いに点在する宮殿跡、交易拠点、石窟寺院や要塞跡などが含まれ、長安-天山回廊の交易路網が紀元前2世紀から後16世紀にかけて、文化と人の交流、宗教の伝播に多大な影響力を持っていたことが評価され、2014年に文化遺産に登録されました。
※なお、その後第2号としてタジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの関連遺跡など計34件が2023年に「シルクロード:ザラフシャン=カラクム回廊」の名で別途、新規登録されています
さて紀元前2世紀と言えば、漢の武帝が匈奴から河西回廊を奪って敦煌をひらき、西域との交流を始めた時代です。交易品としてもっとも有名なものが「絹」、つまりシルクでした。
この道は単に横に長いだけでなく、高低差は海抜0~7,400mまであり、多くの大河をまたぎ、砂漠から雪で覆われた高地まで、地形的にも多様な地域を通ります。当然、気候も厳しい乾燥地帯から半湿潤地域に至るまで、様々。
「長安-天山回廊」のスタートは「長安」です。時代ごとの栄華を伝える前漢長安城未央宮遺跡や、唐長安城大明宮、「洛陽」の栄華を示す城門など、都市遺跡や仏教建築が含まれます。
長安から西に河西回廊、そして敦煌を抜け、一度道は「天山北路」と「天山南路」の2つに分かれますが、カザフスタンとキルギスの国境付近で再び1本になります。
キルギスでは中心都市としてアク・ベシム、カザフスタンではカヤリクといった遺跡が含まれ、こうした遺跡では今でも発掘調査が行われています。例えばアク・ベシムは唐代の中国西域の支配拠点でもあり、唐代の詩人である李白が生まれた所であるとも考えられていて、発掘調査では多数の7世紀頃の瓦や石敷きなどが見つかっており、町の様子や、捨てられた植物の種子からは、当時の植生や食文化の実態が見えてくるそうです。
拠点となる中心都市や交易都市の間の交易路の安全を確保と管理も兼ねた宗教遺跡も数多く登録されています。ただそのすべてが、中国に位置する仏教関係の8遺跡であり、偏った登録ではないかと指摘されることもあるようです。
仏教遺跡は石窟、さらには玄奘がインドから持ち帰った経典を納めた西安の大雁塔、あるいは玄奘三蔵の遺骨を納めた興教寺の舎利塔等が含まれます。
そして最西端に位置する構成資産が、漢の武帝が西方に派遣した「張騫の墓」です。
シルクロードの世界遺産登録には、日本も大きく関わっています。申請当初は中国以西の国々で議論され、東側、つまり日本も度外視されていたようですが、そもそもシルクロードは東西の交易の中に極東が大きな影響を与えていたことは歴史上明らかですし、平山郁夫氏による世界遺産登録の提唱もあり、文化財関係者や政府の働きかけによって、2010年からユネスコ文化遺産保存日本信託銀行への拠出や専門家派遣等で大いなる貢献に至ります。
また歴史を遡れば、シルクロードの発展により、例えば法隆寺・正倉院の仏像にはイラン文化の要素が含まれるとか、平城宮跡からはイスラム陶器瓶の破片が出土するなど、いたるところに日本に伝播した形跡が見つかっています。さらにはギリシャ神殿の柱のエンタシス(膨らみ)は法隆寺の柱にもみられることなども関係しているとされています。
さて、シルクロードは広義には”オアシスの道” ”草原の道” そして”海の道”と、3つに大別されると言います。このうち本遺産はオアシスの道の一部にすぎません。今後様々な調査が実施され、新たな世界遺産が誕生するのも夢ではないでしょう。