パリ・ノートルダム大聖堂の復興とヴェニス憲章

2019年4月15日、パリ・シテ島に位置する世界遺産ノートルダム大聖堂は天井の火災により上部のほとんどが焼け落ち、天井の崩落によって聖堂内部の装飾やパイプオルガンなどの備品は壊れ、焼け、材料に用いていた鉛が解けほとんどを浸食しました。

あれから約5年の歳月がたち、2024年12月に見事なまでに復興を果たし、今では再び誰もが訪れることが出来る状態になりました。

2024-2025年には、これを記念したイベントやシンポジウム等も日本でも様々に開催され、火災当時の消防隊の活躍や文化財関係者の苦労、そして復興までの道のりが改めて世の中に浮彫になってきたところですが、

ここでは特に今回の復興は何に基づきどのように復興するに至ったのか。記念物や遺跡を保存するにあたり、国際的に重視されてきた「ヴェニス憲章」とは何か、について考えてみたいと思います。

■マクロン大統領による復活(復興)宣言

火災直後、その痛ましい焼け跡を見て、フランスのマクロン大統領は、すぐさま被災地を訪問し、その後約5年かけて復興することを国民に、世界に伝えました。ポイントは、そのままにせず、解体もせず、大きく変えず、復活つまり元に戻すということです(5年という期間の短さには文化財関係者は驚いたようですが)。

その後復興プランを計画するにあたっては、 (ノートルダム大聖堂修復事業主任技術者、歴史的記念物主任建築家)であるフィリップ・ヴィルヌーヴ氏の説明によると、様々な復興プランが寄せられたそうです。中には、天井をガラス張りにして近現代的な聖堂にする案や、モダンアートに変える案もあったそうです。

最終的には火災の前の状態に戻すこと、つまり復元することにしました。幸いにも、聖堂の設計図は3Dスキャンデータも含め、ほとんどが揃っていたので、実現性は高いと想定されました。

■文化財の保全に関する国際的な考え

文化財(厳密にはモニュメント=記念物・遺跡)の保全については、西洋の文化財関係者を中心に、戦後国際的に検討し、組織をもって対応していく必要性が提唱されるようになりました。

具体的には、1961年、ユネスコ本部で開かれた第8回国際記念物委員会で提唱され、1964年、ヴェニスで開催された第2回歴史記念建造物関係建築家技術者国際会議では「ヴェニス憲章」が採択され、この憲章の精神を国際的に実現していく組織として、ICOMOS(国際記念物遺跡会議)を設立することが決定されました(設立は1965年)。

以降、国際的な修復の素地となるのは、このヴェニス憲章となり、またこのICOMOSを諮問機関とする世界遺産委員会においても、当然ながらこの憲章の考えは基礎となるわけです。

さてこの憲章には、その中で復元(復原)について記載されています。

3.復原について
復原は推測がはじまるところでとめられなければならないこと、また記念物が経てきた歴史的変化を尊重した復原がなされなければならないこと

つまり根拠なき復元は禁止で、かつ歴史的変化を尊重することが求められます。

これが非常に難しい!

■ノートルダム大聖堂の歴史的変化とは

パリ・シテ島で町が出来る前、4世紀頃には、そこにはサンテティエンヌ聖堂と呼ばれる小さな聖堂があったそうです。これがノートルダム大聖堂の前進とも言えるものですが、12世紀になり、司教の指示のもと、シテ島を中心にした大きなシンボル「西洋最大のカトリック教会」とすべく、一度周辺も含めて更地にし、わずかに位置をずらして新たにノートルダム大聖堂を創ることとなります。

もとのサンテティエンヌ聖堂の石材は主にノートルダムの基礎となる部分に使われ、1983年の発掘調査でそれが明らかになっています。また、ファサードのタンパン(扉の上部のレリーフ)も一部再利用しており、3つのタンパンのうち向かって右側の”サンタンヌ扉”にある石材がその際のものだそうです。

足りない石材(ルテシアン石灰岩)は800mも離れていない近いところを中心に採掘しました。セーヌ河を使って運搬し、比較的安価に手に入ったそうです。

1225年には完成し、この時のものが、現在みられる聖堂の原型となっています。

しかしすべてが今もオリジナルの状態と言えるのか?というと、時代とともに変化してきたことが沢山ありました。それが歴史的変化だと思います。

例えば、この13世紀の完成時は、タンパンやファサード等の彫刻はすべて赤・青・黄など色とりどりに彩色されていたそうです。しかし18世紀の啓蒙思想が主流になった時代に、多くが白くされ、今も聖堂ファサードに色はありません。

また、最も変わったのは19世紀のパリ生まれの建築家ヴィオレ・ル・デュクによる修復です。

18世紀の終わりごろ、”フランス革命“によってパリ市内は大きな被害が残り、ノートルダム大聖堂も例外ではありませんでした。そのまま放置され、人々から忘れ去ろうとしていた中、1831の作家ヴィクトル・ユーゴーによる小説”ノートルダム・ド・パリ”が大ヒットとなり、舞台となった聖堂は脚光をあび、往時の美しい聖堂に戻す運動に繋がります。

1842年、大聖堂の修復プロジェクトが始まりました。コンペを勝ち取ったのが建築家ジャン=バチスト・ラシュと当時の28歳の若手助手であったル・デュクです。

しかしジャンは完成を見ることなくなくなってしまい実質ル・デュク単独の指揮を執ることになります。ジャンが亡くなったことは後のル・デュクの建築への思想にも大きく影響したとされ、当初は14世紀の聖堂に復元する予定が、いくつか手を加えることになります。

一つは屋根に取り付けられた大きな尖塔です。1250年のオリジナルの尖塔は、18世紀に老朽化により解体され、存在しておらず、絵画等を参照するしかありませんでした。ル・デュクはオリジナルよりも細身で装飾的、そして10mも高く大きなものにしました。そして尖塔には新たに彫刻を付け加えたのです。

また、ユーゴ―の小説に影響を受けたとされる、”ストリゲス”と呼ばれる想像上の生物キマイラの意識した彫像を、新たに塔に飾ります(ストリゲスは半分女性、半分鳥を持った悪魔)。

他にも、日本でいうところの寺院の宝物館に当たる「聖具室」は、細部の壁の装飾を彩色しました。

こうした「13世紀の聖堂を」改変した点は、一部批判もあったそうです。

私はこの時のル・デュクによる修復は、今回の火災による復元のような、”歴史のある一点に向かって元に戻す”ことではなく、”パリのシンボルとして今一度輝きを取り戻す”ための、復元というより再興に近いものと考えます。忠実に戻すことより市民の機運醸成を重視したのではないでしょうか。

その意味で、修復の方向性は、きっかけが自然災害によるのか、あるいは自然劣化や紛争等によるのかによって変わってくることでしょう。

なお20世紀になり、第一次世界大戦では1914年にパリは爆撃を受け、再び聖堂は大きな損害を受けます。この時もル・デュクの聖堂をもとに修復されましたが、ファサードは敢えて戦争の傷跡を残すようにしたそうです。

そして2019年の火災に至るわけですが、このように12世紀に誕生したものがオリジナルとする場合、歴史ともに様々な変化があり、修復を繰り返し、今に至ることとなります。

■どこまでもオリジナルに忠実に再現した復元過程

それでは今回の火災後の修復は何をもとに復元されたのか。

先のフィリップ・ヴィルヌーヴ氏の説明によると、こうした12世紀以降の歴史的変化も踏まえつつも、火災前=ル・デュクの建築をもとに戻すことを基本にしたそうです。

そして修復の際には、ヴェニス憲章だけでなく、奈良文書に従った考え方もあるだろうとのことです。もちろん、実際の現場では、作業のたびにいちいち憲章や文書を見ることは無いでしょうけれども、その根底には意識づけられていることでしょう。

ですから、その過程は、”世界遺産条約履行のための作業指針“(ヴェニス憲章や奈良文書の考えを包含したもの)に記載された「真正性=authenticity」を担保するよう、出来る限り12世紀の技術や材質等を意識しました。

※2024年10月、日本でも文化庁が後援する文化遺産国際協力コンソーシアムが主催した「モニュメントはいかに保存されたか:ノートルダム大聖堂の災禍からの復興」と題したシンポジウムも開催されました。

具体的には

①屋根の骨組みに使われる木材は、フランス全土からオーク材を集め(フランスの年間伐採の0.1%に相当したそう)、電動ノコギリではなく、斧を使って木目に沿って割るところまで遡りました。この斧も当時の形を再現し、また木材も当時の資料のまま、乾燥材ではなく伐採した生の木を使ったそうです。

②石材はすでに採石場が枯渇していたため、同じ成分・材質の石灰石を全国で調べ、採石場を確保したそうです。

ただし、同じ過ちを繰り返さぬよう、電気系統は見直し、新たな設備として火災検知器やカメラを追加したそうです。

今回のノートルダム大聖堂の修復には、先人たちが築き上げた考え方が憲章等になって整理され、今も専門家たちの中で生きた知識と技術として継承されてきたことが示されました。また専門家の間ではその復元においては、何をもって真正性が担保されたと証明できるのか、さらに細かな定義について考えるきっかけにもなっているようです。

真正性についてはまた別の記事で詳しく述べていきたいと思います。

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