※アイキャッチ画像は「Joanna Gawlica-GiędłekによるPixabayからの画像」
Ancient Thebes with its Necropolis ( Egypt ) OUV(i)(iii)(vi)
1979年世界文化遺産登録
■太陽神アメンを祀る再生復活の古代都市、テーベとは
カイロ南方、現在のルクソール近辺に位置する、古代エジプト時代に造られたカルナック神殿、ルクソール神殿、そしてネクロポリス(死者の都)と称される古代都市テーベの遺跡の計3エリアが世界遺産に登録されています。
この地域の壮大な物語の中心となるのは古代エジプト時代、諸説ありますが、ざっくり言うと紀元前3000年前~紀元までの約3000年、現代人の私たちにとっては気が遠くなるような長い時間軸です。
この間をさらにざっくり3つに分割するなら、古王国時代、中王国時代、新王国時代に分けることもでき、カルナック神殿やルクソール神殿は紀元前2000年頃の中王国時代に造られ、新王国時代まで神殿としての機能を担っていた最盛期でした。
そしてこれらの神殿も含めた地域一帯に広がっていたのが、かつてテーベと呼ばれた一大都市でした。最盛期にはエジプトで最も大きな都市でした。そして神殿以外にも、葬祭殿、墓などが今もなお残されています。
この最盛期のテーベとは、一体どんな都市だったのでしょうか。
古代エジプトではここテーベを含めて、太陽を、生と死・再生復活の象徴として捉える思想があり、日が昇る東を”生者の町”、沈む西を”死者の町”と考えられてきました。そして東側に建てられたのがカルナック神殿であり、ルクソール神殿です。
カルナック神殿とは、実は様々な建造物の総称であり、正確には太陽神であるアメン神を祀るアメン大神殿を中心とする建造物群です。現在はこれらの神殿を飾る10の塔門や巨大な列柱が林立する形で残されていて、アメン大神殿以外にも妻のムト神、息子のコンス神などのための神殿が点在しています。
アメン大神殿は6つの門により構成され、直線的に配置されています。再奥部にはファラオが礼拝時に沐浴したとされる聖なる池があり、これらが城壁のように壁で囲まれている形です。
ところでアメン神とはどんな神だったのか。実はその姿や形は明らかになっておらず、アメン神に関する神話もほとんど残っていないようです。現在残るアメンの壁画等は、中王国時代以降に形づくられた、太陽神ラーと地方の神アメン神への信仰が結びついたアメン・ラーの姿であり、テーベは厳密にはアメン・ラー信仰の中心地ということとなります(ここではまとめてアメンと呼称します)。ですから、アメン神は太陽神とも言われるわけです。
さて、アメン大神殿が設立された正確な時代はわかりませんが、第18王朝(新王国時代最初の王朝)の前後とされています。特に現存する部分でいうと18王朝2代目ファラオのアメンホテプ1世から6代目アメンホテプ3世までの間に拡張されたことによるものが大きいとされています。
12代目ファラオであるツタンカーメンの死後、18王朝は滅びの道を歩むこととなりますが、新たに台頭した第19王朝の初代ファラオであるラメセス2世の時代に、国は再興し、再びアメン神殿を含むカルナック神殿全体を増築したとされています。

■カルナック神殿とルクソール神殿
アメン大神殿は当時、ナイル川を船で、その後はスフィンクスの参道でルクソール神殿と繋がるような構図となっていました(この道はアメンホテプ3世によるものとされています)。
ルクソール神殿はカルナック神殿の副殿であり、アメン神の妻ムトのための神殿でした。このため夫婦が一緒に過ごすための神殿として”南のハーレム“とも呼ばれたそうです。アメンがここルクソール神殿にやってくるのは年に1度のナイル川の増水期、豊穣を祈って行われる「オペトの大祭」のときです。
アメンはカルナック神殿を出発してからルクソール神殿に辿り着くまで、歴代ファラオはそのアテンドが役目となっており、聖なる船に乗って移動します。この時、川以外の参道も船に乗ったままであり、なんと神官たちが船ごと担いで進んでいたとか!その様子がレリーフに描かれています。10日間の祭りが終わると、アメンは再びカルナック神殿に戻ります。
ところで、このルクソール神殿では、ラメセス2世の巨大な座像を見ることができます。
ラメセス2世は毎年テーベに移り住み、この座像だけでなく、オベリスク、カルナック神殿の三番目の城壁、ルクソール神殿の増築、そして巨大な葬祭殿ラメセウムの建設に着手しました。なお、建築王の名高い彼は、ここからさらにナイルの上流アスワンに、アブ・シンベル神殿も建築します(世界遺産「ヌビアの遺跡群」として登録されています)。
■王家の谷と王妃の墓
さて話は18王朝12代目ファラオのツタンカーメンの時代に戻ります。
彼は、その名は現代の私たちにも実によく聞くものとなりましたが、その功績はそこまで残されていないようです。
彼はわずか10歳でその王位に就くこととなり、そして若くして、29にして亡くなりました。歴代ファラオの墓所となった”王家の谷“に葬られましたが、他のファラオの墓は盗掘にあったのに対し、ツタンカーメンの墓は被害が少なく、良好な状態が保たれたため、2000点もの宝石等の副葬品やミイラも当時の状態で発掘されました。特に黄金のマスクが発掘されたときは一躍脚光を浴び、遠く離れた日本でもツタンカーメン展覧会が開かれたくらいです。
ちなみに1965年、高度成長期を迎えた日本では、朝日新聞社によるツタンカーメン展覧会がひらかれ、まだ海外旅行に気軽に行けなかった当時は、大行列ができたそうです。その時の収益は、世界遺産の理念が誕生したきっかけとも言えるラメセス2世のアブシンベル神殿等の移築に使われました。
さて、忘れてはならないのが、さらに歴史を遡って第18王朝4代目ファラオのトトメス2世の妃であり、5代目ファラオの地位にもなった女王ハトシェプストです。「最も高貴な女性」を意味する通り、夫トトメス2世の死後、残されたトトメス3世はまだ4歳。幼少のためハトシェプストが実権を握り、ファラオを自ら名乗りました。公式の場ではあごひげをつけ、男装してまで内政と交易に努めたそうです。
彼女によって作られた葬祭殿は断崖を背にして3層のテラスをもつ美しい建築として残されており、壁画には彼女の功績のレリーフが残っています。
テーベにある歴代の王の墓は”王家の谷”に、妃のは”王妃の墓”に眠りますが、王妃でありながらもファラオでもあった彼女は、”王家の谷”に埋葬されたようです。