18th-Century Royal Palace at Caserta with the Park, the Aqueduct of Vanvitelli, and the San Leucio Complex ( Italy ) OUV(i)(ii)(iii)(iv)
1997年世界文化遺産登録
■カルロ親子が夢見た宮殿と庭園、そして絹産業を中心にした国力の復活
イタリア南西部、ナポリ近郊に、18世紀には”ナポリ王国のヴェルサイユ”と称される壮大なガゼルタの王宮が建築され、世界遺産に登録されています。
当時はまさにポーランド継承戦争が終わったあと、混迷の時代にナポリ王国はスペイン国王カルロ3世(ナポリ王・カルロ7世)の支配下になります。カルロ3世はすぐに三男にナポリ王の王位を譲りますが、その間、ヴェルサイユとマドリードの王宮に対抗して、1752年に建築家ルイージ・ヴァンヴィテルリがイタリアで最も華麗なこの王宮と庭園、水道橋、絹工場などを森林地帯の中に造りました。
この時、ルイージが宮殿の理想としたのが、フランスの世界遺産ヴェルサイユ宮殿です。
完成までに半世紀近い年月を要し、その間、ルイージが死去し、建設は息子カルロ・ヴァンヴィテッリが引き継いで1780年に完成しました。宮殿は1,200部屋と24の国の庁舎、付属劇場がありました。
19世紀にはブルボン家の貴族たちが春と秋の離宮として利用したそうです。
4つの中庭を囲んだ田の字型の王宮は5階建て。大階段入口の向かいにヘラクレス像が出迎えます。壁面には色石が多用され、天井にはフレスコが輝きます。そして階段の途中に見えてくるのが、王冠を被りライオンに乗るカルロ3世です。
階段を上がった先には、正面が王宮礼拝堂。天井は黄金に色付けされ、壁面を柱が飾り、床は色大理石、奥に主祭壇があり、きらびやかな空間です。2階には王宮居室があり、ここには当時の家具やシャンデリアをはじめ、壁は金色に輝く漆喰やサン・レウチョの絹布で飾られ、ここも華やかな空間が続いています。
庭園も評価されました。並木道と並行して、頂点の大滝まで3㎞にわたり緩やかな傾斜を水が流れ落ち、途中に小さな滝、噴水、彫像が配置されています。
この水路は、なんと40kmも離れた山から水をひき、複数の山と谷を迂回し、王宮庭園へ届ける仕組みになっています。水路橋としては18世紀のヨーロッパで最大のものも!
特に驚くべきは、マッダローニ渓谷のヴァンヴィテッリ水道橋に至っては、10mでなんとたった1cmの傾斜を成しているそうで、その技術の高さがうかがえます。
こうした水路によってサン・レウチョの紡績機などの動力源にもなっています。
王宮や庭園では、ゲーテをはじめとする著名な旅行者をもてなし、音楽家たちに宮殿内の劇場で演奏させ、優雅な時を過ごしていたそうです。また、年に一度復活祭明けの月曜日には庭園を開放し、庶民にお菓子をふるまっていたともいわれています。
■サン・レウチョの絹産業
カゼルタ市の北西にはサン・レウチョと呼ばれる地区があり、ここでは絹織物の繊維工場が隆盛を極めました(現在工場は展示館となっています)。
1750年、先のカルロ3世の命により、サン・レウチョを王家専用の狩猟場にしたことが歴史の始まりとされていますが、他に技術革新に基づいた取組が行われてきました。例えば、ヴァンヴィテッリの水道橋を通じて上水道網が整備されたのもその一つです。
王位を引き継いだカルロの三男フェルディナンドもまた、サン・レウチョを自らの狩猟場として利用。フェルディナント自身は有能なハンターであり、宮廷生活を好んでいなかったとされています。カルロとフェルディナントは、サン・レウチョに絹工場を建設し、さらに絹工場に付随させる形で養蚕・製糸・織物工場、労働者のための住居を増築していきます。
当時ナポリは貧しく、困窮していた時代。カルロ王は次々と巨大建築を建てていきましたが、それは自分の権力を示すためでもあり、国家の公共事業として雇用を増やし、ナポリの人々を救うためでもありました。親子でこの国を立て直す、そうした想いが伝わります。
1789年、フェルディナンドの手によって建設が本格化したサン・レウチョは、さらに拡張され、南イタリアにおける一大絹工場としての産業都市化が計画されますが、この計画はフランス革命軍の侵攻によって実現しませんでした。
しかし当時の絹産業の一団産地であったことはもとより、今でも絹産業が続いていること、それこそがカルロ親子が成したかったことかも知れません。
カルロ3世はまた、マドリードにある歴史建築物も多く建設し、啓蒙君主としてスペインの国力を回復、プラド通りをはじめ、現在にも残る近代的街並みを整備したことにもつながっているようです。