古都奈良の文化財(日本)

2024年6月撮影 東大寺 大仏殿

Historic Monuments of Ancient Nara ( Japan ) OUV(ii)(iii)(iv)(vi)

1998年世界遺産登録

■日本の宗教・文化はここから始まった

世界遺産としての「古都奈良の文化財」には、東大寺、興福寺、春日大社、春日山原始林、元興寺、薬師寺、唐招提寺、平城京跡の8ヵ所が記載されています。

平城京跡は、日本で初の考古学的遺跡として登録されています。710年のこの地への遷都により、壮大な都市計画のもとにかつてない規模で道路・市街地・宮殿・寺院などが造営され、794年の平安京遷都後も寺社の多くは旧都に残されました。さらに春日山原始林は文化的景観としての価値が高く評価されました。

奈良の世界遺産は、JR奈良駅を中心に、東側の平城京・唐招提寺・薬師寺の3点と、西側の奈良公園・春日の森林側に点在する残り5点に大きく分かれます。特に西側の来訪者が多く、特に観光の観点では、混雑を分散させるためにも東側(あるいは南側)への平準化が求められています。

■興福寺

奈良公園の入り口に位置し、近鉄奈良駅であれば5分以内にたどり着きます。

すぐ近くに猿沢池という池があり、ここはかつて興福寺等の屋根の瓦を作るための窯用の土を取った場所とされ、いわば人工池。

興福寺と言えば五重の塔と金堂ですが、猿沢池の近くには、国宝の三重塔があります。

1143年に建てられたものの、1180年に一度焼失し、その後間もなく再建されたと言われ、北円堂と共に興福寺で現存する最古の建物です。心柱はなんと大地に根差していなく、宙に浮いている状態だそうで、その方が免振構造としては効果を発揮するのだとか。外観は平安時代の建築様式を伝えています。

興福寺 三重塔 2024年6月撮影

興福寺には2つの円堂(北円堂と南円堂)が現存します。三重塔と同じく興福寺で最古の北円筒を真似て鎌倉時代に作ったとされるのが南円堂。上から見ると八角の構造のため、八角堂とも言われますが、当時は円を八角形で表していたそうです。

度重なる消失により、現存するのは江戸時代に造られたもので、入り口に唐破風がついているのは江戸時代の特徴です。

南円堂が北円堂と比べて人気があるのは、「西国三十三所」の第九番札所として昔から人々の参拝が多かったこともあるでしょう。もともとこのお堂は813年に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父の内麻呂(うちまろ)追善のために建立しました。基壇築造の際には地神を鎮めるために、和同開珎や隆平永宝を撒きながら築き上げたことが発掘調査で明らかにされており、国宝館でも和同開珎を見ることができました。

また鎮壇には弘法大師空海が大きく関わったことが伝えられています。当時の興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家となる北家の力が強くなり、北家の内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めました。

空海はその後高野山へ向かったとされています。

2024年6月撮影 南円堂(八角堂)

資料によると、興福寺の金堂は3つあったとされ、現存する最も古いのは五重塔の横にある東金堂(行ったときは修理中で見えませんでした・・・)。そして明らかに新しい作りの中金堂。最後にまだ発掘調査が進んでいない北円堂近くに西金堂があったとされます。

国宝に指定され、国の有形文化財に指定されている五重塔や東金堂は、約7割が国費で整備されるそうですが、中金堂はそうはいきませんでした。

中金堂は創建より複数回の焼失・再建を繰り返し、2000年代に一度更地になっています。創建1,300年となる2010年に再建が開始されました。こうして0からのスタートだったため文化財指定されず、興福寺が約60億円かけて2018年の完成に至ったそうです。

今は国宝館に移動しましたが、ここには本尊である釈迦如来坐像、高さ3.6mにもなる木造薬王菩薩・薬上菩薩立像があり、圧巻です、別料金にはなりますが、お越しの際はぜひ国宝館へ!

2024年6月撮影 興福寺 中金堂

この興福寺の宗派は世の中の事象はすべて心の写しであると考える法相宗の総本山。ここ興福寺で修業をした僧、賢心はその後、京都の音羽山を訪れ、清水寺を築くことになり、南の奈良に対して北の京都である清水寺は北法相宗の本山と称されます。

■東大寺

東大寺は聖武天皇の皇太子基親王の冥福を祈って728年に建てられた山房を起源とし、その後建てられた大和国国分寺(金光明寺)を前身とします。

743年に盧舎那大仏の造顕が命じられ、749年に仏身が鋳造されます。

東大寺は国分寺(741年に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院。)として建立されましたが、同時に仏教の教理を研究し学僧を養成する役目もあったとのことで、いわば学問寺でもありました。

そしてアイキャッチ画像からも少し見えるのですが、大仏殿のファサードには観相窓が設けられているのですが、これは外から大仏が見えるようにした窓なのです。江戸時代には全国から僧だけでなく、今で言う観光のために人々がやってきたとされますが、正面から入れるのは年に数回の祭事の時のみ。よって遠くからでも仏の顔が見えるように工夫されたそうです。

二重の屋根の上に金に輝くのは2つの鴟尾(しび)。木製に金のメッキをしたもので、鯱のように水を意味して火災から守ることを願っています。

火災と言えば、2019年の沖縄首里城の火災を機に、文化庁で全国の文化財の防火対策を見直したそうで、とんでもなく大きな大仏殿はその対策に苦労したそうです。というのも、屋根の面積の大きさ故に滴り落ちる水の重さで屋根瓦が幾度となく破損するため、外からの放水銃では耐えられない可能性があったからだそうです。

結局大仏殿の裏に巨大な放水官を繋げ、有事の際には全体を覆う水のカーテンができる仕組みになったのだとか。
年に一回の防火訓練時に見れるそうなので、機会があれば見てみたいものです。

2024年6月撮影 東大寺 大仏

大仏殿以外にも多くの見どころがあります。

有名な南大門は鎌倉時代の再建。
鎌倉時代に流行した大仏様と呼ばれる日本の伝統的な寺院建築。東大寺再建の際に、中国に渡った僧によって取り入れられた建築様式で、つまり当時の宗の時代が残っているものです。

南大門は山口県から持ってきた檜で作られ、写真のように大仏様の特徴がみられます。今ではここで使われた1mもの幹の檜は日本では採れないそうです。また、仁王像の前にかつて存在した扉の跡(軸を通す穴)が残っています。

写真奥に見えるのが、“東大寺の仁王さん”の名のもとに親しまれている南大門金剛力士像

鎌倉時代初頭に運慶快慶ら仏師たちによってわずか69日間で造像された巨大像です。像高はいずれも8m以上あるのですが、なんとこの像、3,000ピースの寄せ木で作られているんだとか!

2024年6月撮影 東大寺 南大門 仁王

その他大仏殿に至る参道にも注目です。石造りの参道は、再建時に色が濃い部分が「インド」産の石、その横が「中国」産の石、その横が「韓国」産の石、そして「日本」の石と並んでいて、仏教の伝播がわかるように工夫されているのだそうです。

東大寺はとにかく広く、多くの建築が残ります。

二月堂清水寺を彷彿とさせる、傾斜面の上に建つ懸け造りの寺院で国宝指定されています。高台に位置するため拝殿からの景色は奈良全景を見渡すことができ、絶景。夕景や夜景がおすすめだとか。

この寺院の特徴は、なんと1270年以上、二月堂で1度も絶えることなく毎年続く伝統行事があることでしょう。

3月12日深夜(13日の1:30頃)には、若狭井(わかさい)という井戸から観音様にお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式「お水取り」が行われます。

2024年6月撮影 東大寺 二月堂

上の写真の左下に映る古めかしい小屋には井戸があり、ここで年に一度、祭事の時だけ扉が開き、汲まれたお香水をくみ上げ、本堂での火を使った祀りになるのです。この時、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明に火がともされ、木造建築にも関わらず本堂まで火が持ち込まれます。

その火の大きさは圧巻だそうで、木造建築の御堂で行われるのは日本で稀だとのことです。案内してくれたガイドさんは、仏教だけでなくゾロアスター教が起源なのでは?とされる説もあるんだとか。

水と火で祀られる素敵な寺院でした。夏は麓で蛍も見れるそうなので、さぞかし幻想的な風景になることでしょう。

■春日大社

春日の森は”鎮守の森”と呼ばれ、神域とされているため、写真のように一般には立ち入り禁止となっています。自然の森でありながらも春日大社の一部として文化遺産に登録された貴重な資産です。

人が立ち入れないからこそ守られてきた原生林。その木々は、縄文時代から生き続けるとされ、その昔は150万坪にも及んでいたと伝えられています。ケヤキ、エノキ、ムクノキなどの広葉樹を中心に、樹齢600年から200年の樹木が約600本にも数えられ、森林生態学、環境学などの学術分野からも、たいへん貴重な森とされています。

春日大社は神山である御蓋山ミカサヤマ(春日山)の麓に、奈良時代768年に、称徳天皇の勅命により武甕槌命タケミカヅチノミコト様、経津主命フツヌシノミコト様、天児屋根命アメノコヤネノミコト様、比売神ヒメガミ様の御本殿が造営され、整備されてきました。

タケミカズチノミコトは神話上、茨城県鹿島から白い鹿に乗って出立され、一年ほどかけて奈良の御蓋山に至り鎮座されたとされています。春日大社では鹿は神の使いであり、奈良公園の鹿は神聖視されているのです。ですから、鹿に餌を与える場合は、鹿愛護会の販売する鹿せんべいを与えるようにしましょう(人間のお菓子は鹿には毒です)。

2024年6月鎮守の森

称徳天皇は史上6人目の女性天皇。父は聖武天皇、母は藤原氏の光明皇后。この母光明皇后は藤原不比等の子に当たります。この時代、藤原氏一族は娘を天皇に嫁がせることで権力を保っていました。春日大社に社殿ができると、藤原氏の人々は家の繁栄を願って「春日詣」をするようになります。行列を組んで春日大社へ詣で、御幣や鏡、剣などを奉納し、荘園を寄進するなどしました。

こうして藤原不比等の孫の命によって代々藤原氏一族の氏神として春日大社も発展していきました。

そして同様に氏寺として栄えたのが隣接する興福寺。よって社紋は同じ藤の花になっています。

春日大社は全国に代表される”春日造”と呼ばれる建築様式。出雲大社に代表される大社造と同様に、切妻造・妻入であるが、屋根が曲線を描いて反り、正面に片流れの庇(向拝)が付いています。

大きな特徴として、式年遷宮と式年造替を行ってきた神社です。

江戸時代までは出雲大社同様、遷宮として移築をしてきましたが、明治からはその資金がなくなり、40年しか持たないとされる桧皮葺の屋根を20年に一回交換する造替の方式に転換しました。こうして春日大社の31の建築のうち、その半分を20年に一回交換することで、次の40年を迎えてきたのです。

なお本殿は江戸時代までは壊して全国に寄進し、建て直してきましたが、今では壊れた部分の補修のみを行っています。よって今も全国の神社のどこかに、かつての春日大社の本殿の材料が使われているのです。

こうした建築の一種の遺伝は、世界遺産委員会に対し、日本の文化財(木の文化)の保全の考え方を1994年の奈良文書で発信していくこととなります。

2024年6月撮影 春日大社 中門
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