Himeji-jo ( Japan ) OUV(i)(iv)
1993年世界文化遺産登録
■神話に始まった姫路のシンボル、奇跡的に残った日本を代表する城郭建築
兵庫県姫路市には、幕末に残された全国の城の中でも、その大きさも城郭全体の建築としても保存状態がよく残され、日本を代表する木造の城郭建築であるとして、現在の姫路城とその周辺エリア(かつて姫路城の外濠)が世界遺産に登録されています。
JR新幹線で姫路駅を降りると、大手前通りを真っ直ぐに先に、姫路城がそびえ立ちます。
戦後の復興の過程で電柱の地中化、世界遺産登録前後から道路幅の拡張やトランジットモールの設計など、時代とともに景観や周辺環境が整備されてきました。それだけ姫路において姫路城の存在は中心的なものであったことが伺えます。
姫路城の西側に、「姫路文学館」があり、そこでは姫路の成り立ちから現在に至るまでの過程を、デジタル技術を活用して分かりやすく面白く勉強することができます。
姫路の名は、播磨国風土記に出てくる「日女道丘」からきています。
簡単にいうと、神々の時代、大汝命(オオナムチノミコト)が乗った船が転覆し、その積み荷の落ちた場所に島々ができ、その一つ、蚕子の流れ着いたところが「日女道丘」で、現在姫路城のある「姫山」であるとされています。「蚕子」は古語で「ひめじ」といったそうです。
姫山の地に初めて砦が築かれたのは1333年、赤松氏の時代と言われ、時代とともに城主は変わり続け、増改築されていきますが、その保存状態の良好さは、戦乱の時代も世界大戦も潜り抜けながらも、戦塵にほとんどまみれることなく今日にいたっていることが大きく影響しています。
とくに第二次世界大戦で姫路も空襲を受け、城に複数の焼夷弾が落とされたものの、いずれも被害が軽傷、特に天守に落ちたものは不発弾であったことなど、その強運にも驚かされますが、一説には空襲時に最初に狙われることが想定されたため、夜の闇に紛れるよう、”黒い藁”で覆って隠したことも大きな功績でしょう。
まさにその時代は「漆黒の姫路城」を示していました。
現在、平成の大修理が終わってかつての白さを取り戻し、まさに白い漆喰を前面に施した別名「白鷺城」を見ることができます。
赤松氏の後、西国統治の重要拠点として羽柴秀吉、池田輝政、本多忠政が城に夢を託して拡張され、今見られる全容が整ったのは、戦乱の世が落着いた1617年のことです。関ヶ原の戦いのあと大改修され、江戸城に次ぐ規模となりました。
最盛期には外濠は今の姫路駅の手前まで存在し、門の数は90(現存は21)にものぼったそうです。海外も含め城郭建築の外壁あるいは堀は1つの”円”を成しているのが一般的ですが、姫路城の曲輪はぐるぐると”螺旋状”を描き、始点と終点が繋がらない設計になっているが特徴です。
かつては姫路城を中心に、士族、町民、そして農民の町屋が広がり、城下町の様相を呈していましたが、時代ととも町並みが変わり、明治の廃城令、そして戦時中の軍の駐屯地にするために更地にされるなど、戦火に塗れなかったものの、戦争によって現在残る姿まで縮小されていきました。
姫路城の建築は非常に戦いに備えて精巧に作られていて、ガイドさんもその説明に力点が置かれていました。
とくに有名な設備としては、石垣は「扇の勾配」と言われるように、上にいくほど剃る形をしており、よじ登れない工夫がされています。石落としや狭間と呼ばれる弓や銃用の穴、特に火縄銃では射撃後に室内に硝煙が充満することから、排気口としての高窓が備えられています。
また、その芸術性にも注目です。
”菱の門”にはまさに黒い柱の上部に花菱のマークが付けられ、その上の瓦屋根の上に、漆塗りに金の飾り金具で装飾を施した三連の格子窓、その左右にはこれも黒漆に飾り金具の釣鐘型の窓、これは”華燈窓(かとうまど)”と言って、金閣寺や銀閣寺でも用いられている格式の高い窓が備えられています。
瓦は平瓦と丸瓦を交互に組み合わせ、継ぎ目に白漆喰が塗られ、甍の美を表現しているのだとか。
木造建築の基礎となるのは凝灰岩で出来た立派な石垣。10km圏内から産出し、算木積みと呼ばれる崩れにくい積み方をしています。
正面向かって左手に回ると、二の丸にあたります。
徳川家康の孫娘で、豊臣秀頼そして本多忠刻の妻であった千姫が、40人の侍女に囲まれ、10年を過ごした場所です。現存するのは”化粧櫓”(化粧する部屋なのか、化粧された部屋という意味かは不明とのこと。部屋は極彩色の装飾が施されています。)を含めた一部が残されています。
千姫は7歳で大阪城の秀頼へ嫁ぎました。しかし大阪夏の陣で秀頼は自害、千姫は運よく燃える炎の中から救われたとされます。江戸へ戻る途中に敬語に当たっていた本田忠政の息子忠刻と再婚。2人の子供にも恵まれます。しかし長男は3歳の時に病死、夫、忠刻も病死と続きました。その後70まで生きたものの、人生は非常に過酷で、ここに住んだ10年はその人生の中で平和に包まれていた時代とされているようです。
複数の門をくぐり、ぐるぐると道を昇ったり下りたりすることで、ようやく天守に辿り着きます。
4つの天守閣が渡り廊下でつながった連結天守と呼ばれる城郭は、松山城、和歌山城を含め現存するのは三つだそうです。
天守だけで11の鯱ほこが大小飾られ、火災から守ることへの祈りが込められています。
籠城のため、天守に台所を用意したそうですが、台所があるのは他に大洲城のみだとか。
5層6階の大天守は、木造建築としては世界屈指の規模。そのため、巨大な天守を支える東西2本の心柱が要となります。
実際に天守に入ると2本の心柱、大柱を見ることができますが、よく見ると東は写真のように円柱、西は四角柱で形が違います。
昭和の解体修理では、腐朽が激しかった1/3を取り替えたものの、柱、梁、床材などすべてそのまま使われたそうです。これは世界遺産の真正性を示すことに繋がったものと思われます。
しかし西の心柱は、芯が腐っていたために新しいものと交換することとなります。困難だったのは、東と同じ一本通しのもの、しかも長さ25m以上、礎石上で直径1mにおよぶ木材を探す必要がありました。全国を探し回り、ようやく見つかったのは木曽の檜。
しかしこれもまた一難あって、山林鉄道に載せて運び出す際に、急カーブの多い渓谷で木が台車からはずれて崖下に落ち、ポキッと折れてしまったのです!
そこで下方部は運び出した檜、足りない上方部は、姫路近郊の神崎郡笠形神社の境内の木の提供を受けて継ぎ足すこととなります。
ここらへんは西洋の真正性の考え方と異なる点があるのかも知れません。