Sado Island Gold Mines ( Japan ) OUV(iv)
2024年 世界文化遺産登録
◇水の流れで山崩し!江戸時代、独自の方法で極めた採鉱~小判製造までの過程
新潟県佐渡島の西側、西三川砂金山エリアと相川および鶴子エリアの金銀山の計3エリアが世界遺産に登録されています。
例えば相川の金山坑道を歩くと、様々な展示を通じて、佐渡の鉱山としての歴史を学ぶことができます。その歴史は古く、戦国時代から平成元年の操業停止まで、その期間も約500年という非常に長いものでした。
こうした国史跡としての対象となる時期のうち、世界遺産として対象とされたのは戦国時代~明治に至るまでの300年強になります。
登録基準ⅳにあるように、人類史の重要な段階を示す技術や景観の見本として、世界では採鉱において機械化が進んだ時代に、ここ佐渡島の金山では高度な手工業で行われており、他に類をみない事例とされています。
また逆にこの金山を通して、当時の日本としては高品質の金を生産する技術や採鉱から小判の生産までの専業化した作業工程等の技術や、最盛期には五万人を擁する町が形成される等のヒトや物資が全国から集まり、文化が形成されていったことも価値としています。
構成資産は西三川砂金山と相川・鶴子金銀山。
島の原型ともいえる火山活動により、豊富な金銀の鉱床が形成され、例えば相川鶴子金銀山の鉱床は大地に垂直に入り、西三川砂金山は水平に入るなど、その形は様々でした。
そのため、採掘技術も様々で、前者では縦に掘り進んだ結果、”道遊の割戸”のように山が割ける形に崩れ、後者は石見銀山遺跡と同じように、横に掘り進めていく技術が活用されました。特に西三川砂金山の場合は“大流し”と呼ばれる、導水路を作って水で山を崩して押し流す方法により、土砂から砂金を取る手法が取られた特徴があります。
坑道を見るには、相川の方が整備され、ガイドツアーも揃っていますが、砂金取り体験をするなら西三川にあるゴールドパークがおすすめです。
また、相川には情報発信とガイダンスを含めた立派な展示施設として、きらりうむ佐渡があり、ここで事前学習をしていくと深まります。
佐渡の金銀山は平安時代末期から1989年の休山までの長期間にわたって採掘され、17世紀初頭には世界の金の10%を算出したとされます。
◇佐渡を世界遺産に!ある鉱山の歴史学者の熱い想い
2007年に先に世界遺産に登録された島根の石見銀山。その文献調査研究者の一人が田中圭一氏であり、彼は佐渡出身の鉱山に係る専門家として、島根県の要請を受けて石見銀山を調査していたそうです。
調査を進めるうち、故郷である佐渡の金銀山も世界遺産に相応しいのでは?と思うようになり、1997年に彼を会長とした「世界文化遺産を考える会」を設立しました。残念ながら田中氏は佐渡の金山が世界遺産登録される前に亡くなられてしまいますが、その後この会は市民団体「佐渡を世界遺産にする会」へと引き継がれます。
2006年から新潟県と佐渡市の連携による取組が開始され、
2010年に暫定リスト入り。
2015年から5回にわたって推薦書が国に提出され、
2021年にようやく国内の推薦候補になったのです。
世界遺産登録後、今年3月に「佐渡島の金山を未来につなぐ会」が新たに設立され、田中氏の想いは受け継がれていくものと思います。
このように民間発起で進められた点は日本の世界遺産の中でも数少ない事例と思われます。
余談ですが、道遊の割戸の近くに、ひっそりと小さな神社「高任神社」があります。
これは金山の守り神である「大山祇神社」を分社したものですが、名前は明治の日本の産業革命の時代に活躍した大島高任の名前をとっています。
大島は鉱山学者であり、長崎で採鉱技術を学び、製鉄のための反射炉の建築の経験がありました。
明治の近代化の中で政府からの命で岩手県の釜石に、鉄鉱石の採掘場と運搬路、そして高炉(総称して橋野鉄鉱山として「明治日本の産業革命遺産群」の一つに世界遺産登録された)を作り、近代製鉄の父と呼ばれました。
釜石を去ってから約10年後に佐渡鉱山局長に就任し、佐渡の鉱山開発に着手、また鉱山祭を挙行し、毎年7月の祭礼の日には神事が行われるそうです。
時代時代の鉱山学者の熱意や、世界遺産の繋がりを感じますね。