平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-(日本)

2020年12月撮影

Hiraizumi – Temples, Gardens and Archaeological Sites Representing the Buddhist Pure Land ( Japan ) OUV(ii)(vi)

■末法思想から生まれた極楽浄土の世界

岩手県平泉にはかつて奥州藤原氏一族が築いた、まるで仏教寺院のテーマパークのような世界が広がっていました。寺院の数は最盛期には40もあったとされ、お坊さんの数も1000を超えていたとか。

中尊寺」の境内を歩くとわかるのですが、入口から「金色堂」への道「月見坂」はかつて関所があった国道であり、現在もいくつかのお堂を見ることができます。奥州藤原氏初代”清衡”は東北が身内の争いも含めた戦乱の世を太平にするため、城を作るよりも東北全土に多くの寺院を建立することに全力を尽くしたそうです。そんな東北の”中心”に位置するのが「中尊寺」。高台に位置し、見晴らしが良い場所を選んだ豪族ですが、城がないのはそんな理由だったからかもしれません。

清衡が平泉に仏教寺院を造り広めたのは平安時代末期。世には終末思想(仏教では末法思想、現代で言えばアルマゲドンのような・・)が溢れていた時代。皆死後の来世を含めて現世に平和、つまり仏の世界での極楽浄土を望みました。

清衡を含めた藤原氏一族はそんな極楽浄土に見立てた寺院を目指したのです。しかし戦や火災によってそのほとんどが失われ、建造物として残っているのは40もあったうち中尊寺の金色堂のみとなったのです。

■史跡から1000年前へ思いを馳せる

世界遺産に登録されているのは、下記5つの資産。

  • 中尊寺
  • 毛越寺(の庭園を含めた跡地)
  • 観自在王院跡
  • 無量光陰跡
  • 金鶏山

このうち、中尊寺以外は山か跡地であり、建築物は当時のものは残っていません。なので世界遺産として理解するには、資料と史跡から(浄土を)イメージする必要があります。

①毛越寺(特別史跡・特別名勝)

開山したのは850年ころ、慈覚大師 円仁(えんにん)によるとされています。円仁は天台宗の三代目座主であり、彼を祀る「開山堂」が残されています。

2020年12月撮影 開山堂

毛越寺の境内には他に「嘉祥寺」と「円隆寺」の”跡地”が残されており、一説では円仁はこの地にたどり着いたときに霧に呑まれ、迷い込んだ先に目についたのが白い毛。それをたどっていくと、一頭の白い鹿に遭遇したそうです。その鹿は老人に変わり、ここに寺院を建立するよう告げたという。大司教オベールの夢に登場したミカエルの命によって「モン=サン=ミッシェル」(詳細はコチラ)ができたのと近いものを感じますね。

2020年12月撮影 円隆寺跡 礎石が残されている

こうして”毛”を”越えて”たどり着いたという話から「毛越寺」と呼ばれるようになったのだとか。通称はおいといて、その後300年ほど経って藤原氏が勢力を伸ばし、二代目”基衡”が着工、三代目”秀衡”が完成させた「嘉祥寺」と、「円隆寺」。いずれも焼失して今は礎石のみを残しますが、当時はとにかく大きなお堂だったそうです。

そしてその前方に位置する大きな泉が「大泉が池」、特別名勝・特別史跡として指定され、世界遺産になった大きな要因です。

これも円隆寺を背景に、前方に泉そしてその中心に中島を配置し、泉の水は日本の河を流れてくるよう再現した遣り水と石段の滝を模し、流れ着く泉は海をイメージしているそうです。海には砂州や海岸をイメージした岩の設置の仕方など枯山水のように工夫されていて、これらの造園技術は”作庭記“に遺されているのです。

2020年12月撮影 遣り水 奥から滝の水が流れているよう
2020年12月撮影 遣り水から流れ入る泉

なお境内には「常行堂」という阿弥陀如来と摩多羅神を祀った、寺院と神社を兼ねた、神仏習合の建築もみることができます。日本古来の自然崇拝や神道と融合し、浄土思想が日本独自の平面計画、伽藍造営や作庭の理念を発展させたという点が評価されています。

2020年12月撮影 常行寺

②観自在王院跡(名勝)

平泉の駅から一本道を歩くと最初に目にするのが、ここ藤原氏2代目”基衡”の妻によって建立されたと伝えられている「観自在王院」の跡地です。ここも残っているのは礎石と、浄土庭園のみ。

2020年12月撮影

しかし他と違ってここは基衡の”妻”が建立したという点。家系図には女性のためか、名前が記されていないので、奥にある墓石には「基衡室安倍宗任ノ女墓」としかありませんでした。

2020年12月撮影「基衡室安倍宗任ノ女墓」

宗任とは、この奥州藤原氏の前に勢力を誇っていた、「阿部氏」一族の頼良と「清原氏」一族の娘との間に生まれた男で、いうなれば「阿部氏」側の一族。一方その子である観自在王院を建立した女性は、「清原氏」側の子である基衡と結婚させられたので、二大勢力の仲裁を示す政略結婚だったのかもしれません。

敷地の北側には、大小2棟の阿弥陀堂が建っていましたが、その奥に小さく目立たないような佇まいの墓がありました。

この浄土庭園の泉は空から見ると鶴のような形をしているようで、その名も「舞鶴池」。毛越寺の泉同様、遣り水と滝をイメージした石がありました。

2020年12月撮影

③無量光院跡(特別史跡)

藤原氏3代”秀衡”が建立した無量光院は、京都宇治の世界遺産「平等院鳳凰堂」(詳細はコチラ)を模して、造られたとされます。形もほぼ同じで、大きさはひと回り大きく造られたそうです。しかしこれも現在は、建物は焼失し、礎石が残っているだけです。

極楽浄土は西方にあり。宇治の鳳凰堂と同じく日が沈む西に寺院を建立し、その背景には須弥山「金鶏山」がそびえ、手前に浄土式庭園を置く、一直線の配置は、まさに西方極楽浄土を体現したもの。なお毛越寺や観自在王院では北川に金鶏山が見える形でした。

2020年12月撮影 泉の奥に無量光院があった。その奥の小山が金鶏山

④金鶏山(史跡・名勝)

平泉を訪れた松尾芭蕉も、「金鶏山のみ形を残す」と、その印象を述べたそうですが、山というより丘程度の高さに見えました。 金鶏山は秀衡が一晩で造った人工の山、とも言われていますが、実際平安時代に山を作る技術があったのかは謎です。黄金の鶏が埋められているなどの伝説もあるそうです。

⑤中尊寺(特別史跡)

開山は毛越寺と同じく円仁。清衡が、本拠地を平泉に移し、1105年に中尊寺の造営に着手しました。

参詣道「月見坂」は急な勾配で、両端には杉が林立しています。最初に本堂が見えますが、本尊は釈迦如来。世界遺産に登録される前は薬師如来が控えていたそうですが、歴史を紐解くと火災で焼失する前は釈迦如来像だったことが判明し、平成になって製作したため、金ぴかの像がありました。

2020年12月撮影 月見坂の先の参詣道 両サイドに寺院が沢山
2020年12月撮影 中尊寺 本堂

さらに奥に行くと、金色堂と経蔵、覆堂の3つの建物が見えてきます。

金色堂」は京都の世界遺産「宇治上神社」(詳細はコチラ)の本殿と同様、覆屋(覆堂)という建物で覆われています。ちょうど宇治上神社も本殿が3つの神を祀っていたのと同様、金色堂も初代清衡、二代基衡、三代秀衡のご遺体と四代泰衡の首級を収めた3つから成っています。

2020年12月撮影 中尊寺 金色堂(の覆屋)

かつてあった覆屋は昭和の大修理でコンクリート式のものに置き換わっており、国宝は中身の金色堂のみとなります。修理前にあった覆屋は鎌倉時代に造られたそうですが、「覆堂」として隣接した場所に移築され、今は空っぽでした。しかし平泉の寺院のほとんどが焼失した中で、唯一残った金色堂を守ったのは、この覆屋があったからなのかもしれません。

2020年12月撮影 中尊寺 覆堂

金色堂は撮影禁止。かつて松尾芭蕉が発見した際に、森の中に光をみたと句を残し、マルコポーロの東方見聞録に「ジパングに金が眠る」と記した通り、屋根以外は金箔で覆われた建築でした。金だけでなく、象牙夜光貝の細工をあしらったため、光をきらびやかに反射しています。

この地域は川で砂金(矢の森金山等金山があったそう)が採れたため、藤原氏は財力を高め、象牙などの資材に変えたとされているそうです。

金色堂の入口手前には、大きな鐘があります。清衡は仏の力を信じ、中尊寺建立供養願文に”人々の霊魂は敵味方区別なく、さらには人も動物もすべて、浄土へ行けるよう”な理想郷を読み上げたとされ、この鐘の音がどこまでも届くように鳴らしたとされます。

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