世界遺産条約の理念誕生のきっかけとされる、エジプトのアブ・シンベル神殿の移築プロジェクト。
建築を命じたのは時の王(ファラオ)、ラメセス2世です。
彼はどんな王だったのでしょうか。
少年期は父セティ1世の護衛や戦いの指揮官を務め、10代になると副官として外国の戦争にも赴いたそうです。体も屈強で、戦士ラメセスの姿がすでにそこにはありました。
彼が第19王朝第3代目ファラオになったのは紀元前1280年、セティ1世の死去に伴って即位しました。彼はまだ20代の半ば。
この時代、エジプトは三方を敵に囲まれていました。西にリビア、南にヌビア、そして北にヒッタイト人。地中海には海賊もいたとされ、これも含めれば四方が敵となり、様々な脅威と戦っていた厳しい時代でした。
特にアナトリア地方(現在のトルコ)を拠点としていた北方のヒッタイト人は屈強な戦士に、得意とする製鉄技術を使った装備をもち、大変苦戦したそうです。
ラメセス2世が率いるエジプト軍と、強大なヒッタイト帝国のムワタリ2世が率いる軍勢とのあいだで繰り広げられた大きな争いが、それが”カデシュの戦い”です。この時代の戦のカギを握ったのは、戦車部隊や弓でした。彼はそれらや歩兵、騎兵などを駆使し、相手の奇襲作戦を耐え抜き、見事撃退したとされます。
その後歴史上初の講和条約を結んだとされ、エジプトでは戦いの大勝利として讃えられたそうです。当時、ヒッタイト側からすると、あくまで引き分けとする記述が残っているようですが、ラメセスはその後建築した建造物にその歴史的大勝利をリリーフに彫り、プロモーションに尽力したとされます。
ラメセス2世は建築王とも呼ばれるほど、その権力を建築物に残しました。
彼は祖父の出身地である地中海沿岸に近いナイル・デルタ東部の湿地に、新たな首都ペル・ラムセスを建設します。当時は泥のレンガで作った神殿や宮殿、王妃や王女たちの邸宅等も作りました。宮殿には中庭やプールまであったそうです。
また、世界遺産「古代都市テーベとその墓地遺跡」に含まれるカルナック神殿やルクソール神殿の整備も行いました。近辺にはラムセウムと呼ばれる葬祭殿も建造していますし、数多くのオベリスクを作り、自身の名前を讃えるレリーフを彫っています。
特に有名な建築は世界遺産条約誕生のきっかけにもなった、世界遺産「ヌビアの遺跡群」に含まれる「アブ・シンベル神殿」と「小神殿」です。
ところで、ラメセス2世には8人以上の妻と100人以上の子供がいたとされます。アブ・シンベル神殿のファサードには、4体のラメセス2世の像の足元に小さく妻や子供が佇む程度ですが、最初で最愛の妻であったネフェルタリ王妃には、特別な愛情を注いだとされます。
彼女は公務に励む王に同行し、かのヒッタイトとの和平交渉にも参加したそうです。2人の間には7人の子供がいたとされます。アブシンベル神殿の完成して間もなく亡くなってしまいますが、隣の小神殿は彼女のための神殿として建造。
ファサードの像は、ラメセス2世と同じ大きさのネフェルタリの像が挟まれるように立ち並び、愛情の深さの現れだとされています。
ラメセス2世の治世はカデシュの戦い以降は平和な時代が続き、繁栄を極め、続く代々のファラオもラメセスの名を継いだそうです。
数々の戦をかいくぐり、戦士としての側面を持ちながら、講和条約による平和の使者、そして建築王と家族愛に満ちたファラオ、まさに偉大なる王として名を残しました。