富岡製糸場と絹関連遺産群(日本)

2018年撮影 繭庫

Tomioka Silk Mill and Related Sites (Japan)  OUV (ⅱ)(ⅳ)

2014年世界遺産登録

■背景(世界遺産大辞典、富岡製糸場資料より)

19世紀後半の明治維新後、開国によって西洋の近代国家の仲間入りが喫緊の課題であった日本にとって、すでに輸出していた生糸を軸に貿易を拡大することが重要であると考え、伝統的養蚕技術に代わる器械製糸技術を導入することになります。

そんな中、1872年にフランスから招聘した技術者、ポールブリュナの指導のもと、初の官営となる富岡製糸場が完成。

ここでの技術はその後日本各地に広がり、同じく大きく通風を重視した蚕の育成法を確立した「田島弥平の旧宅」、通風と温度管理を調和させた「高山長五郎の生家=高山社跡」、1905年に建造された国内最大規模の天然の蚕の卵の保存施設「荒船風穴」、そして「富岡製糸場」の4か所が構成資産として世界遺産に認定される。

※世界遺産になるまで

2003年 群馬県が世界遺産登録推進を表明

2004年 群馬県世界遺産推進室設立。富岡製糸場伝道師協会発足。

2005年 富岡製糸場が国史跡に指定。

2006年 重要文化財に指定。

2007年 政府が世界遺産としてユネスコに申請。

■登録範囲と遺産価値

<① 富岡製糸場 >

■富岡製糸場の価値

世界遺産に登録された理由として大きく2つ、重要な点にわけると、

一つ目は、フランスの養蚕技術が早い段階で日本に広まり、世界の生糸市場における日本の役割を証明するモデルとなったことが、技術や文化の交流が認められることにつながった(登録基準ⅱ)ことです。

2018年撮影 従業員の宿舎

現地のガイドによると、特に実際の労働力になったのは、当時の日本ではあまり考えられなかった女性の雇用=工女の存在とされます。

当初は初めて見るフランスから来た外国人が赤ワインを飲む姿をみて、「フランス人が生き血を採って飲む」とまで言われ、ほとんど集まらなかったそうですが、初代工場長の娘「尾高勇」を率先して働かせるなどして32都道府県から工女が集まったそうです。

またポールブリュナの家族も同じ敷地内にあったので、身近にフランス人を感じられたという点も大きいと聞きました。そして尾高勇によってともに採用された一人の女性から取締役も登場し、彼女らが地域に戻り、それぞれの地で製糸技術を日本各地に広めました。

ガイドによると工女は一等~三等までクラス分けされ、一等は赤たすきに高下駄という服装。昇進を目指して努力する仕組みがあった当時からあったそうです。

2018年撮影 トラス構造 糸繰機械庫

二つ目は、当時日本にはなかったレンガ造りを、日本伝統の木骨と組み合わせて工場をつくった「木骨レンガ作り」の和洋折衷は、日本特有の産業技術様式の基本となったこと(登録基準ⅳ)。

ポールブリュナはまず、養蚕に適した気候と、豊富な水「利根川支流の鏑川」に近い位置を選択しました。窓ガラスや蝶番はフランスから取り寄せ、石や木材は群馬県産。レンガはブリュナの指導のもと、日本の瓦職人によるものだそうです。繭倉庫や繰り糸場は日本古来の柱に西洋レンガを組み合わせた木骨レンガ作りとなり、広い空間をつくるために、柱の少ない屋根=三角形のトラス構造が見られました。

なお、電気が通ったのが大正に入ってからであり、それまでは自然光での作業だったそうです。よって光を多く取り入れる大型の窓ガラスをフランスから輸入したようですが、しかしそれでも日没前に業務が終わってしまうため、しばらくは赤字続きの経営だったとのこと。

■世界遺産になるまでに守り続けたこと

115年間営業を続けたこれらの保存に対しては、2005年に富岡市の所有となり、2006年に重要文化財に、2014年6月に世界遺産登録、同年12月に東西の置繭所と繰糸所の3か所が国宝に指定されます。

営業中であった1939年から2005年の間は片倉工業という民間最後のオーナーとなり、営業停止した1987年から2005年までの18年間は、売らない・貸さない・壊さないを理念に保存活動を行ってきた功績は、私はとても大きいと感じます。

<② 田島弥平旧宅 >

通風を利用した蚕の育成法「清涼育」を確立した養蚕農家の田島弥平。1863年に建造された主屋と蚕室を兼ねた建築。換気のための「越し屋根」が見られ、のちに近代養蚕農家の原型となった。国史跡。

2018年撮影 今も住民がいらっしゃるので外観の写真のみだが、敷地には入れる

個人宅のため写真は割愛しますが、蚕の部屋は四方の窓(ふすま)が空く構造になっており、さらに天辺のヤグラも換気が可能な構造になっています。

富岡製糸場と異なり、車でのアクセスしかないため、観光客はまばら。しかし土日は一日100人がこの1軒の家にやってくるそうです。ガイドは藤岡市の派遣数名でやりくりしているとのこと。

登録されているのは旧宅と繭庫を含めた4000㎡。しかし近辺には同じように築150年のヤグラを持った歴史ある家が他に5軒あるが、世界遺産に登録されているのは田島弥平宅(それも本家は隣の家)のみ。ガイドによると、その他の家も養蚕の生産に貢献したことは間違いないが、清涼育を使って当時どこも教育されていなかった養蚕技術を「養蚕新論」などの著書によって日本中に広めた弥平の功績が大きいとのことでした。

余談ですが養蚕新論は200pにわたるそうですが、そのうち40pがイラストを使い、当時文字が読めない市民にも広く知れ渡るきっかけになったそう。明治になって田島弥平の功績が認められ、緑綬褒章を受賞しています。 なお、田島家は本家武平による宮廷養蚕奉仕であり、明治天皇お墨付きを示すものがそこかしこにあります。

<③ 高山社跡 >

通風と温度管理を調和させた「清温育」を確立した高山長五郎の生家。高山社設立後は研究や組合員への指導が行われた。

2018年撮影

ガイドによると、高山家の34代目 長五郎は、それまで代々マキ売りなどで細ぼそと生計を立てていた家系だが、日本中を旅して、東北地方での養蚕事業に目をつけ、商売を興しました。しかし最初の6年は失敗続きだったという。

清暖育という蚕の育成法によって成功を収めたあとは、研究と次世代への継承に力を入れます。ここで育った講師は14000回も日本全国、時には朝鮮半島や台湾にまで派遣したとされる記録が残っているようです。

なお世界遺産申請にあたり、ICOMOSの調査が行われた際に、沖縄から来たという落書きがヤグラで発見されたとのこと(実際に見ることができました)。

田島弥平旧宅のヤグラが一本の通し屋根に対し、こちらは3つ、ないしは4つの小屋根に分かれていて、必要に応じて区画を区切って換気が可能に。さらに蚕室ごとに床に暖房用の炉を設置し、寒ければ温める、厚ければ換気するということができます。

<④ 荒船風穴 >

1905年に建造された岩の隙間から噴き出す冷風を利用した国内最大規模の蚕種の保存施設。当時年1回の養蚕を複数回可能にした。当時ヨーロッパでは蚕が死滅する病が流行しており、日本の生糸は質も含めて重要であった一方、器械でなかったために生産が間に合わない状況であった。複数回可能にした点は非常に大きい。国史跡。

■渋沢栄一と世界遺産登録までの道

ガイドによると、富岡製糸場と絹産業遺産群は、民間発起ではなく、政府の発起案からスタートしたとのことです。というのも、群馬県は世界遺産はおろか、国宝を一つも持っていなかったので、世界遺産がダメでもほかの文化遺産にしようという考えがあったそうだから。

その中で、政府の当初案は10件の資産が候補だった資料がありましたが、その中に田島弥平旧宅は含まれていませんでした

理由は産業革命にかかわる工場・建築物が主体で政府は申請を検討していたが、「絹産業を世界に広めた文化交流」「絹産業の技術発展」を示すには、建築物だけではなく、それらを構成するストーリーが必要だったからです。

そこで急遽蚕の育成法を広めた田島家に白羽の矢が立ったわけです。

なお田島家は群馬県伊勢崎市だが、生糸の商売には埼玉県出身の渋沢栄一によるところが大きい。群馬というより埼玉の印象が強かった田島弥平旧宅は当初の候補に挙がらなかった訳ですね。

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