Historic Monuments of Ancient Kyoto (Japan) OUV (ⅱ)(ⅳ)
1994年世界遺産登録
■平安時代から江戸に遷都するまでの文化・芸術・政治の中心地であった変わり続けた町
794年の平安京建都から江戸時代まで、京都は日本の都として貴族、武士、王朝が築いた時代の舞台として、それぞれの時代の文化を示す文化財が多く残り、そのうち京都・滋賀にまたがる3つの神社、13の寺院、1つの城が世界遺産に登録されています。
そのため、京都と聞くと、街全体が世界遺産だと思われる人もいるようですが、世界遺産に登録されているのは下記の個々の物件、計17資産となります。
- 賀茂別雷神社(上賀茂)(★):7世紀頃に創建?賀茂氏の氏神を祀る。
- 賀茂御祖神社(下鴨)(★):7世紀頃に創建?祖父の賀茂建角身命と母の玉依姫命を祀る。
- 教王護国寺(東寺)(★) :796年創建、823年には空海により真言宗の根本道場に。金堂は入母屋造りの和様と大仏様の折衷。五重塔は日本最大。
- 清水寺(★):778年開創。坂上田村麻呂創建。17世紀に家光により再建されたものが多い。本堂(舞台)は寄棟造りの屋根と釘を使わない懸け造りでできている。
- 延暦寺(★):天台宗の総本山。1571年の織田信長により全焼したため、16世紀以降に再建された。広範囲に及ぶ境内地(比叡山)の全てを含む。
- 醍醐寺(★):907年に醍醐天皇により整備され、豊臣家による再建が多い。入母屋造りの金堂、院家(塔頭)寺院の三宝院(★・◎・■)を含む。
- 仁和寺(別称・御室御所)(★):888年宇多天皇が完成させるが、応仁の乱で大半を焼失。金堂は宮殿建築と仏教建築の融合とされる。
- 平等院(京都府宇治市)(★) :下記記事参照。
- 宇治上神社(★):下記記事参照
- 高山寺(★):1206年に再興。石水院は寝殿造りの建築。
- 西芳寺(別称・苔寺)(◎) :8世紀に行基により開山。1339年に夢窓疎石により禅宗寺として復興。枯山水と池泉回遊式庭園。
- 天龍寺 (◎) :1339年夢窓疎石がすすめ、足利尊氏により建立。建築は明治時代の再建が多い。
- 鹿苑寺(相国寺塔頭、別称・金閣寺)(◎・■) :1397年に足利義満により建立。応仁の乱や1950年の火災で焼失。下記参照。
- 慈照寺(相国寺塔頭、別称・銀閣寺)(★・◎・■) :1482年足利義政により建立。庭園は苔寺を模したともされる池泉回遊式。
- 龍安寺(妙心寺塔頭)(◎) :石庭の作者は不明とされるが、1450年貴族の別荘を禅宗寺院に変えたことにはじまる。
- 西本願寺(★・◎) :親鸞の廟であったが、1633年には現在に近い姿に変遷していった。
- 二条城(★・◎):現在残る多くが徳川家を中心とする江戸時代に造営された京都市街の平城。皇室の離宮としても使われ、また幾度と戦の戦火、地震にも見舞われ、改築されている。
例えば金閣寺はあまりにも有名ですが、確かに金色の寺院自体は一度国宝に指定されましたが(1929年)、1950年に一度火災で焼失してしまい、国宝指定から除外されました。一方で1956年に特別名勝として指定された「庭園」は、いまだ健在であり、世界遺産となったのは金色の建物より主に庭園の保存が大きいとされます。
■宇治神神社
内殿は、左殿に菟道稚郎子命(うじのわきいらつこ)、中殿に応神天皇、右殿に仁徳天皇を祀るとされます。
国宝は本殿と拝殿。本殿は一間社流造りが3つ、確かに覆屋に入っていました。拝殿は寝殿造りの遺構ともいわれています。また屋根は檜皮葺。
なお境内には「桐原水」という宇治七名水(宇治茶の七名園)の一つが唯一今も湧き水として湧いています。
■平等院
藤原頼通を開基とし、1052年にもともとあった道長の別荘を寺院に定めたそうです。
当時は末法思想と呼ばれる、現代でいうアルマゲドンのような終末思想が世にあふれた時代。同時の民衆の救いは、死後に極楽浄土という安息の地にいくことが生きる目的にもなっていたとされます。そんな西方極楽浄土を体現させたのが阿弥陀堂で、1053年に建立されました。
阿弥陀堂は江戸時代あたりから鳳凰堂と呼ばれるようになったそうですが、棟の上にある銅製の鳳凰やレプリカ。屋根も本瓦ではなく、木瓦葺きであったとされる説も(木瓦葺きは中尊寺金色堂のみ現存)。空から見ると確かに鳳凰の形をしていそうです。
鳳凰堂と内部の壁画や如来坐像、菩薩像などが国宝。
鳳凰堂は10円玉や、鳳凰は10000円札にも描かれています。
■音羽山清水寺
778年開創とされますが、現在に至るまでに10回を超える大火災にあい、そのたびに堂塔を焼失と再建を繰り返し、現存する伽藍のほとんどは1633年に再建されたものです。
一説によると、清水に寺を建立したのは、奈良の興福寺で修業をした僧、賢心(けんしん)の夢に白衣を着た老人が現れ、「北へ清泉を求めて行け」とお告げをしたことに始まるとされます。平泉の「毛越寺」の創建もそうでしたが、大司教オベールの夢に登場したミカエルの命によって「モン=サン=ミッシェル」ができたのと近いものを感じますね。
賢心は霊夢に従って北へと歩き、京都の音羽山で清らかな水が湧出する瀧を見つけます。そこで修行をする老仙人と出会い、この観音霊地を守ってくれと言い残されました。この地で見つけた清泉は、その後”音羽の瀧”と呼ばれ、現在も清らかな水が湧き続けているとも言われます。
”音羽の瀧”は今も見ることができ、ここでこんこんと流れ出る清水は古来より「金色水」「延命水」と呼ばれ、清めの水として尊ばれてきました。3筋に分かれて落ちる清水を柄杓に汲み、六根清浄、所願成就を祈願しましょう。
さて、賢心がこの地にきて2年後、鹿を捕えようとして訪れた武人、坂上田村麻呂(のちの征夷大将軍)に出会います。田村麻呂は賢心に尋常ならぬ敬意を抱き、師と仰いでともに寺院建立にまい進したとされます。こうして音羽の瀧の清らかさにちなんで清水寺と名付けたのです。
本堂の建築:舞台は4階建てのビルに相当し、音羽山の斜面にも耐えられる「懸け造り」と呼ばれる木材の格子状の組み木で支えています。床下に使われているのは18本の樹齢400年余の欅。大きいもので長さ約12メートル、周囲約2メートルの柱になるそうで、木材同士をたくみに接合するこの構造は「継ぎ手」と呼ばれ、なんと釘を1本も使用していません。
本堂の屋根は檜皮葺の優美な曲線が美しい「寄棟造り」。本堂内部は、巨大な丸柱によって手前から外陣(礼堂)と内陣、内々陣の3つの空間に分かれ、一番奥の内々陣には御本尊が奉祀されており清水寺にとってもっとも神聖な場所です。
宗派は法相宗:清水寺は開創以来、奈良仏教の法相宗を宗旨とし、中世・近世においては法相宗大本山、興福寺の末寺だったそうです。賢心は音羽山に来る前はこの奈良の興福寺の僧でした。1965年になって、清水寺が北法相宗の本山として独立します。この時代の清水寺貫主、大西良慶和上によって北法相宗が立宗されました。『北』法相宗という名称には、南都と呼ばれた奈良に対して、北に位置する京都で法灯を掲げるという意味が込められています。
大西良慶和上は、その生涯を通じて仏教の社会的活動を掲げて観音さまの教えを実践した方だったそうです。老人福祉施設や児童養護施設の開設や運営、災害時の慰霊や復興ボランティアなど、公益のために尽力することが自身と仏教が担う使命だと考えておられたそうです。