ガウディとその時代

逆さづり実験

アントニ・ガウディは多くの日本人が知っている名建築家ですが、「ガウディ伝」には、

アントニ・ガウディは1852年生まれ。この時代は日本ではペリーの浦賀来航の1年前。まだ刀を持っていた時代の建築家が造った聖堂が、今なお建設中というこの不思議さを感じることができる

ガウディ伝より引用

こう書いています。そしてガウディが生まれた街は、レウスという、この時代、ロンドンやパリに劣らないほどスペインでは大都会でした。しかしそれでも家々はせいぜい3階建て。カサミラやカサバトリョのような「高層な」建造はほとんどなかったのですから、ガウディ建築のすごさが伝わります。

世界遺産に登録されている作品はわずか7件ですが、ガウディがデザインした建築は他にも沢山。そしてこの時代のバルセロナには同じく著名建築家や、あのピカソなども登場しました。

ここではガウディ建築とその時代を追ってみます。世界遺産の建築自体は「アントニ・ガウディの作品群」ページを参照ください。

■エウゼビ・グエルとの出会い(1878年 ガウディ26歳)

1878年に開催されたパリの万国博覧会。ここで出品予定であったクメリャ手袋店は、あっと言わせるようなショーケースを求めて、プンティーの工房を訪れます。

ここでアルバイトをしていたのがガウディです。ガウディがこのケースを任され、とても膨大な費用がかかったそうですが、結果的にはクメリャの期待通り、大好評のショーケースが出来上がったそうです。

そしてこのパリ万博でこのショーケースを見て、一目ぼれしてしまった男がいました。それがバルセロナきっての実業家エウゼビ・グエルです。

■サグラダ・ファミリア教会の建築家に就任(1883年 ガウディ31歳)

バルセロナには、「聖ヨセフ信仰協会」という団体がありました。バルセロナ人口を越える会員数を擁したこの協会は、家長のヨセフ、聖母マリア、そしてイエスの聖家族(サグラダ・ファミリア)に捧げる教会を作ることを決めます。

”ガウディ伝に”よれば、この教会は現在のようなものではなく、ごく小さなものを検討していたようです。この建築アドバイザーとしてガウディの師であるマルトゥレイが選ばれました。

しかし計画はすぐに建材のトラブルでうまくいかなくなります。結果的に建築士は辞任することになってしまうのですが、そこで後任に、アルバイトとして活躍してきたマルトゥレイの弟子であるガウディが抜擢されることとなります。

当時のガウディは建築士の資格を持ってまだ5年。それでも師からは十分に役割が果たせるという自信をいただいたようです。

■グエル別邸の門(1884~1887年 ガウディ32~35歳)

竣工が最も早かったのは、グエル別邸の門・厩舎に当たります。世界遺産になっているような、イチからデザインした建築ではなく、建物の一部にすぎませんが、それでもこれらはグエルにとって予想以上の完成度だったようです。

wikipediaより引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/グエル別邸

鉄を使うことでしなやかな羽を演出し、立体感のある開いた口を持つ竜は、ギリシャ神話に登場するシーンだそうです。現在においてもそのファンタジックなデザインはとても魅力的です。

またこの門だけでなく、守衛小屋の入口には早くも放物線アーチの形をした窓や、ムデハル様式(イスラムとキリスト文化の融合)が見て取れます。世界遺産ではありませんが、訪れる価値のある建築でしょう。

■グエル邸(1886~1888年 ガウディ34~36歳)

上記別邸の完成度を目の当たりにし、グエルは次に家のデザインを丸ごとガウディに委託します。それが世界遺産のグエル邸です。

建築の詳細は「アントニ・ガウディの作品群」のページを参照いただきたいですが、ここではとにかく放物線アーチの多用、鉄を使ったデザインにあふれた、まさにガウディの世界が花開きます。また屋上の煙突には破砕タイルの使用も見られます。

これを機に、ガウディは名実ともに建築家として誰もが認める時の人となりました。

■1888年、ルイス・ドメネク・イ・モンタネル

バルセロナ建築学校の教授時代、ガウディの教師に当たったのがドメネクです。彼はバルセロナの建築家として、のちのガウディのライバルであり、同じくモデルニスモの中心人物でした。

1888年、あのパリ万博から10年後、今度はバルセロナで万国博覧会が開かれます。しかし当時この町には海外から訪れる観光客を受け入れるだけの大型ホテルがなく、また開催まで時間もないという事態が発生していました。

この事態を収拾したのがドメネクであり、当時職人を三交代制で24時間稼働することで記録的なスピードで4階建ての大規模なホテル「大国際ホテル」を作り上げたそうです。

彼の作品の中でも「カタルーニャ音楽堂」「サン・パウ病院」は世界遺産に登録されています(詳細は「バルセロナのカタルーニャ音楽堂とサン・パウ病院」へ)

2015年撮影

■1895年、パブロ・ルイス・ピカソ

1895年、まだ14歳の少年だったピカソは家族とともにバルセロナにやってきます。当時すでに美術学校に入っていたようで、ピカソがよく訪れたミュージックホールはグエル邸のほぼ向かいに位置していました。

当時のガウディはすでに43歳。この時点で交流があったかどうかは分かりませんが、ピカソからしたらすでに著名な建築家であったガウディを知っていた可能性は大いにあるでしょう。

■サグラダ・ファミリアの建築

サグラダ・ファミリアは、聖ヨセフ信仰協会の寄与のもとに建築が進められていきましたが、時代とともに信仰心が薄れ、たびたび協会は資金不足に陥りました。

ガウディは遅延をあまり気にしていなかったようですが、結局生前に完成したのは生誕の門のバラ窓あたりで、尖塔部分は大方できていましたが未完でした。

しかしその一方で、工事が進まない時間は教会に行って神父に助言を求めたり、教会建築に必要な知識を学んでいきました。

そんな日々が続くうちに、いつしか命の危険と隣り合わせの断食を行ったこともあったそうです。ピカソの友人のウピソは、一時期ガウディの元で働いたことがあり、「断食中のガウディ」という絵を描いています。

2015年撮影

■1926年6月7日 ガウディ 73歳

サグラダ・ファミリアの仕事を終えた夕方、路面電車の軌道にひかれ、強く地面にたたきつけられました。

断食や年齢によって小さくなったからだに、まるで乞食のような身なりであったことが重なり、病院まで運ばれるのに時間がかかったそうです。誰も彼が著名建築家のガウディであることに気づかなかった・・・もし気づいていたら、もっと早く救いの手が伸びたかもしれません。

事故の三日後に亡くなったそうですが、病院から始まる葬儀の参列者は3000人を超え、2kmにもなったそうです。

サグラダ・ファミリアが完成するのは2026年、ガウディ没後100年に当たるそうです。

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