ヌビアの遺跡救済キャンペーン

マサコ アーントによるPixabayからの画像2 アブシンベル神殿

世界遺産条約誕生のきっかけともいわれるこの活動は、まさにユネスコがイニシアチブを取って行われました。

1950年代初頭、エジプトは近代化や灌漑用水の確保のため、ナイル川上流に巨大な”アスワン・ハイダム”の建設計画を策定。

一方ダムが造られると、同じくナイル川沿いに位置する「アブ・シンベル神殿」や「フィラエのイシス神殿」などを含むエジプト新王国時代の「ヌビアの遺跡群」が水没してしまうという危機に陥りました。

そこで同国のナセル大統領(ダム湖はのちにナセル湖と命名される)はユネスコに遺跡救済を依頼します。1964年にはこの”遺跡救済キャンペーン”が始まりました。

(なお同時代にはイギリスとフランスの国策会社が運営していたスエズ運河をエジプトが国有化する宣言があり、欧米諸国はこれに反発。さらに冷戦下の米国を刺激するかのように、ソ連はエジプトの経済活動を支援していた背景もあり、募金活動は思うように進まなかったそうです)

時間はかかりはしたものの、最終的にはユネスコの働きかけにより50か国から支援金が集まり、その額はなんと4,000万ドル!遺跡救済の半分が集まったのです。

ちなみに日本はまだ世界遺産条約を批准しておらず、拠出したのはわずか28万ドル。そのうち日本政府はたったの1万ドルで、のこりは当時ツタンカーメン展を開催した朝日新聞社が、その収益金から捻出したというのだから驚きです。

また金銭面だけでなく、技術面でも世界中から知識が集まり、遺跡を1036個のブロックに裁断し、ナセル湖の上に現れる位置に再建するというプランが採用されました。

よって今見ることができるアブ・シンベル神殿は建築当初とは異なる高台に移動しているのです。元は岩山をくり抜いて造られましたが、移築後もその状況を再現するため、岩山に見立てたドーム天井まで造りました。つまり現在の岩山はハリボテなのです。

こうしてエジプトの遺跡に関わらず、エジプトだけでない、「人類共通の宝物」=世界遺産 の概念が形作られていきました。

※遺産の詳細はコチラを参照ください。

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