マカオ歴史地区(中国)

提供写真 2019年撮影

Historic Centre of Macao (China)  OUV (ii)(iii)(iv)(vi)

2005年世界遺産登録

■東洋と西洋が交差した歴史地区

歴史的な街道や、ポルトガル風や中国風の家並み、宗教的な建物・公共建築が集まった、22の建造物と8つの広場が「ギア要塞のエリア」「セントポール天主堂のエリア」の2つのエリアに分かれて、マカオ歴史地区として世界遺産に登録されています。

国際交易の戦略上、重要な地点に位置したマカオ特別行政区は、16世紀半ばから中国に返還された1999年まで、ポルトガルの統治下にありました。マカオという呼び名には諸説あるようですが、媽閣廟(マーコ廟)という媽祖を祀るために造られた廟が世界遺産に登録されていますが、ここから変化したのでは、という説もあるようです。

そんな媽閣廟は世界遺産エリアの最南端に位置し、聖ポール天主堂跡まで北上すると構成資産を一通り見ることができます。

媽閣廟

媽閣廟は、マカオの街が形成される以前から存在し、マカオ最古の寺院と言われています。

一説には、16世紀半ば、この地に定着し始めたポルトガル人が航海の女神であるアーマの名から、アマガオ(阿媽の湾)と呼び、それがいつしかポルトガル語で「マカオ」と簡略されたそう。

媽閣廟は儒教、道教、仏教、さらに民間信仰の影響も受け、それぞれの神を祀るお堂があり、正門、中国スタイルの鳥居と4つのお堂で構成されています。

まるで周囲の岩盤にくっついたような場所に建設され、時代とともに増築されて今に至ります。

2024年8月撮影 マカオ 媽閣廟2

■鄭家屋敷

19世紀に建てられた屋敷跡で、マカオにある中華建築に西洋や外国の様式が取り入れられた初期の建物として価値が認められました。

特にかつて住居とした鄭観応は、中国清末民初の思想家・実業家で、急激に西洋の文化や思想が入り込んでくる中で、市民に分かりやすく西洋の文化や思想を紐解き説明し、孫文や毛沢東に影響を与えたとされた方です。

その取組はのちに、『盛世危言』として纏められ、マカオや清に広がっていったそう。

屋敷は観応の父の文瑞により建てられ、塀の中に中庭ををつくり、順番に大門、離れの部屋、門楼、そして二棟の母屋と続きます。

こうした建築は中国嶺南地方様式とされますが、このマカオの建築の特徴は、梁が持ち上げられた大広間が二階にある点なのだそうです。

中ではこの時代の建築材料「タイパ」や石灰などの原料を見ることが出来ます。

2024年8月撮影 マカオ 観応邸宅

■ロバート・ホー・トン図書館

世界遺産マカオの歴史地区の構成資産の1つ、ロバートホートンの図書館。

本は苦手だけど図書館や本屋は大好きです。特に世界遺産となれば!

1894年以前に建築されたもので、ポルトガル人のドナ・キャロリーナ・クンハの住居を、香港の実業家で大富豪、ロバート・ホー・トンが1918年に購入して別荘として使用していた建物です。

ホー・トン(何東)一族は、英領香港時代における四大一族のひとつでした。

ユダヤ人の血を引くオランダ系イギリス人の父と香港人の母から生まれたそうで、父は事業の失敗後に蒸発してしまい、母ひとりで何東たちを育てるなどし、家庭環境には苦労されたようです。

しかし学業は優秀で、卒業後の商社にて翻訳業務等を担当して成果を上げ、自ら「何東公司」(Ho Tung & Company)も設立し、砂糖の売買も手がけるようになったとか。マカオの西洋化と商業により富を成した一人とされます。

ロバート・ホー・トンの死後は遺言により建物はマカオ政府に寄付され、1958年に図書館となりました。

2005年に図書館の新棟ができたそうで、バロックな外観とは別に、中は近代的なガラス張りの図書館でした。

2024年8月撮影 ロバートホートン図書館外観
2024年8月撮影 ロバートホートン図書館内部

■レアル・セナド・ビル(市政署)

新古典様式で建築された当時のまま、壁、レイアウト、裏庭に至るまでが残されています。二階には公式行事などで使用される議事室と、図書館、そして小さなチャペルがあります。

ここは暑い夏ではタダで涼めて、お土産屋さんも素敵で、休憩場所にはおすすめです。帰りもこの向かいの道路でタクシーを拾いました。

内部で美しいのは、ポルトガルやスペイン様のアズレージョタイル。

提供写真 2019年撮影
2024年8月撮影 マカオ 市政庁舎内装
2024年8月撮影 マカオ市政庁舎 中庭 アズレージョタイルで描かれたポルトガル時代のマカオ(と思われる)

アズレージョタイルと言えば、マカオの坂道に広がる番地の標識はすべてアズレージョ。上に広東語、下にポルトガル語で書かれており、これが町並みにマッチしていてとても美しく、中国でも西洋でもない、文化の融合を感じます。

アズレージョについてはぜひ「ポルトの歴史地区」を参照ください。

2024年8月撮影 マカオ アズレージョタイルの番地標識

■宣教師ザビエルの最後の地

ポルトガル領であり、カトリック教徒が多かったマカオ。現在はキリスト教徒はマカオ人口の10%に満たないようですが、中世の時代にはきっともっと多かったことでしょう。

マカオにおけるキリスト教徒といえば、やはりフランシスコ・ザビエルです。イエズス会を開き、日本においても「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に代表されるようにキリスト教を布教していった宣教師の一人としても有名です。

彼は日本で布教活動を行ったあと、中国に赴きますが、1552年の冬、マカオ南に位置する上川島に到着後に病に倒れ、亡くなります。

聖ポール天主堂は、そんなイエズス会士による建築の一つです。聖パウロを祀るために造られた、当時アジアで一番大きなカトリック教会でした。

■聖ポール天主堂跡

聖ポール天主堂跡は、1602年から1640年にかけて建設され、1835年に火事で崩壊した聖母教会と教会の隣に建てられた聖ポール大学跡の総称です。当時の聖母教会、聖ポール大学およびモンテの砦は全てイエズス会による建築物であり、マカオの「アクロポリス」のような存在だったと考えられています。近くには聖ポール大学の考古学的な遺跡が残っており、細密な教育プログラムを整備した東洋初の西洋式大学であった歴史を物語っています。今日では、聖ポール天主堂跡のファサード(正面壁)はマカオのシンボルとして街の祭壇のような存在となっています。

マカオ観光局hpより引用:https://www.macaotourism.gov.mo/ja/sightseeing/macao-world-heritage#leal-senado-building
提供写真 2019年撮影

■聖ヨゼフ教会

18世紀前半に聖ポール大学とともにイエズス会によって創設された聖ヨゼフ修道院は、中国、日本および近隣における宣教活動の主要拠点でした。聖ヨゼフ修道院は大学と同等の教育課程を持ち、ポルトガル女王から「伝道信徒団の館」という王家の称号が与えられたそうです。

修道院隣の1758年に建築された聖ヨセフ教会は、中国では珍しいバロック建築の代表作ともいえる建築です。

主祭壇にはヨゼフ像が祀られ、左右の両祭壇にはキリストと聖母マリアの像。

教会の建築はギリシャ十字型で4つのヴォールトで支えられています。

この教会には、フランシスコ・ザビエルの聖遺物(腕の骨だそう)が祀られています。

ただ、遺骨はあるとは言え、ザビエルはマカオの地を踏んだのでしょうか。案内してもらったガイド曰く、1552年4月、ザビエルは、日本での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、自ら中国を目指し、同年9月上川島に到着したそうです。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去ったとのことです。

マカオの地を訪れたかどうかは不明ですが、ザビエルを通して、日本とマカオの繋がりを感じることができる世界遺産でした。

2024年8月撮影 マカオ 聖ヨゼフ教会
2024年8月撮影 マカオ 聖ヨゼフ教会 ザビエルの遺骨を祀る(黄色い小窓の中に見えます)

■大堂

マカオのキリスト教の建築はすべてカトリックです。そのマカオ教区としての司教座があったのがここ、大堂(カテドラル)でした。

1622年頃に建築された大堂は、元々はタイパという土とワラでできたレンガで築かれましたが、台風によって被災し、19世紀半ばに再建された際に、マカオ出身の建築家によって今の新古典様式になったそうです。

ファサード(正面)は、飾り柱と突出した2つの鐘楼で特徴づけられています。外装には上海製の漆喰を使い、落ち着いた印象の外観を与えています。

個人的にはマカオの教会の中でもここの内装が一番気に入りました。

2024年8月撮影 マカオ大堂ファサード
2024年8月撮影 マカオ歴史地区 カテドラル 

最後に、マカオの教会すべてに共通するとされるレリーフを紹介します。どの教会も左右の側面に7枚ずつ、計14枚のレリーフ。イエスが十字架を背負い、ゴルゴダでの磔刑、そして墓に入れられるまでの過程が描かれており、言葉がなくても絵だけでイエスの最後を理解することができます。

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