エルサレムの旧市街とその城壁群(エルサレム ヨルダンによる申請)

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Old City of Jerusalem and its Walls ( Jerusalem (Site proposed by Jordan) ) OUV(ii)(iii)(vi)

1981年世界遺産登録 1982年危機遺産登録

■小さな区画にユダヤ・キリスト・アルメニア・イスラムと多宗教が暮らす街

エルサレム地区の旧市街は、約1km四方の城壁に囲まれており、城壁含めた全体が世界遺産になっています。この狭い城壁内は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、アルメニア教徒、そしてイスラム教徒の4つのエリアと、どこにも属さない嘆きの壁に囲まれたエリアで区分けされているのです。

キリスト教区画には「聖墳墓教会」、アルメニア教区画には「聖ヤコブ聖堂」、ユダヤ教区画には「嘆きの壁」、そしてイスラム教徒にとっての聖域が「岩のドーム」というように、様々な宗教の聖地としてのシンボルが狭い城壁内に共存しており、エルサレムはそうした意味で常に象徴的な都であり続けています。

それ以外の建造物を含めて200 を超える歴史的建造物があり、歴史的・芸術的にも特徴を持っている旧市街ですが、パレスチナとイスラエルの紛争に加え、都市開発や観光公害によって1982年に危機遺産になり、以来今でも毎年世界遺産委員会でも保全のモニタリングが行われているのです。

岩のドーム」は7世紀のウマイヤ朝時代に建造され、植物や幾何学文様の装飾が美しい外観をもち、ムスリムにとっては、メッカ、メディナに次ぐイスラム第三の聖地とされます。

八角形の台の上に、アイキャッチ画像のように金色のドーム屋根が載った形で、このドームが金色になったのは20世紀になってからだそうで、ヨルダンからの資金提供により現在は80kgの金箔でできているそうです。

八角形の礼拝堂は、もともとモスクとして建造されたものではなく、この中心にある岩を守るために造られたもの。この岩はムハンマドによって祈りを捧げ、アッラーの御座に昇天されたとされる聖なる石を指します。建造されたウマイヤ朝時代は露出した岩肌だったようですね。この岩の下には洞窟があり、最後の審判の日にすべての魂が集うとされているとか。

Martin ForcinitiによるPixabayからの画像

聖墳墓教会」は復活の教会として知られ、イエス・キリストがゴルゴダの丘で十字架にかけられた場所であり、そして埋葬され、復活したとされる場所でもあります。中央のドームにイエスが埋葬され3日後に復活を遂げたとされる墓があり、キリスト教やアルメニア教徒にとっての聖地とされます。

Evgeni TcherkasskiによるPixabayからの画像

嘆きの壁」は、西暦が始まる少し前に存在したユダヤ王国時代、ヘロデ王の時に拡張されたエルサレム神殿の城壁の名残であるとされます。現在この壁の向こうに「岩のドーム」が立っているエリアとなっていますが、かつての聖地は今でもユダヤ教徒が祈りを捧げる場所として生き続けています。

■異例だらけの世界遺産登録

世界遺産は通常自国が自薦するところから始まりますが、この遺産に関しては多くが異例となっています。

まず世界遺産のエリアであるエルサレム地区はイスラエルの行政区画の一つであるものの、国際的にエルサレム自体が国家の主権が及ぶものと認めらていません。そして東側の部分、東エルサレムはパレスチナ国が首都であるとしているものの、そもそもパレスチナ国自体が国として国際的に承認されていない複雑さがあります。

1981年の第五回世界遺産委員会は10月にシドニーで通常通り行われたものの、この遺産が登録されたのは、その前の9月に行われた第一回臨時の世界遺産委員会でのことです。そして上記の理由から、隣国ヨルダンによる申請という注釈付きでの異例の登録となりました。

こうした背景をうけ、猛反発したのがアメリカ。1984年にUNESCOを脱退する形になり、復帰は2003年。長い間拠出金が滞るという事態にも陥ります。さらには2011年にUNESCOがパレスチナの正式加盟を承認したことにも反発し、それ以降は年間8,000万ドルの分担金(UNESCO予算の約22%に相当)の拠出が停止となりました。その後も様々なパレスチナやUNESCOに対する反発が続きます。

UNESCOの正式な加盟国として承認されたことにより、2012年には「ベツヘレムの聖誕教会と巡礼ルート」がパレスチナの世界遺産として登録され、2014年には「オリーヴとブドウの土地パレスチナ」も世界遺産に登録されます。そして2017年には「ヘブロン」がパレスチナ3つめの世界遺産に登録されることとなります。

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