ワルシャワ歴史地区(ポーランド)

studioyayoによるPixabayからの画像

Historic Centre of Warsaw ( Poland ) OUV(ii)(vi)

1980年世界遺産登録 2014年軽微な変更

■住民の手で見事復興を成し遂げた街

ワルシャワは第二次世界大戦で激しい損傷を負い、一度街の8割以上が瓦礫と化したものの、ワルシャワ市民たちは旧市街の街並を昔の姿のままに再建することを決意し、成し遂げた、類まれなる歴史を持ちます。世界遺産の中でも「復興」という名の修復を行ったことへの価値評価で意見が割れた遺産となりました。

ワルシャワは中世まではヴィスワ川のほとりにある小さな村落でした。14世紀ごろに旧市街を囲むように防壁が造られ、少しづつ発展、16-17世紀にかけてポーランドの首都はクラクフから、ここワルシャワに遷都します。以降国王の王宮は増改築され、街も大きくなります。

19世紀にはポーランドを代表する作曲家、フレデリック・ショパンを輩出します(市内に博物館)。

こうして発展してきた歴史的建築は一方で他にも見られるものとして、当時世界遺産としての価値があったかというと、疑問が残るところです(世界遺産条約の発効はもっと後のため、この時点での議論はなかったため)。

歴史が大きく動いたのは第二次世界大戦。ナチスドイツの侵攻を受けたことに始まり、ワルシャワは占領下におかれ、市民は厳しい生活を余儀なくされます。1944年に起こった歴史的な「ワルシャワ蜂起」は国内軍とドイツ軍による衝突で、住民やソ連も絡まって複雑な展開になります。当初は国内軍に軍配が上がったものの、最終的には追いつめられ、そしてドイツ軍によって街は徹底に破壊しつくされます。

瓦礫からの復興に際し、様々な議論がなされたそうです。至った結論として”破壊前の完全なる復元”でした。戦後復興の場合、多くがインフラや経済面を重視し、最新の設計に変わることがほとんどで、ここワルシャワも例外ではなかったのですが、歴史地区に関してはこれと対立した形となります。

そこで役立ったのが3,500点にも及ぶ建築学の学生たちが残した街の図面です。そして建築に使う素材も、瓦礫から一つ一つを集め、修復に使われました。

こうして住民の手によって戦前とほぼ変わらない景観を復活させたのです。

一方で「世界遺産」に登録される際にも、この復元という過程で様々な議論がなされました。

”そもそもこの歴史地区の歴史的価値を証明するのが困難” ”復元は建物それぞれ異なる時代をモデルに復元されている” 等を理由に一度は落選。二度目は復元そのものより、戦後復興を住民の意思で行った記憶として評価・登録されました。そして当時の修復に対する考え方に、この街の復興は新しい概念に一石を投じたと評価されたのです。

登録基準 (ii): 歴史地区という大きな規模での復興は、ヨーロッパの歴史の中でも特異であり、保存に対する多様性を与えることとなった

登録基準 (vi): ほぼ破壊されつくされた状態からの類まれなる復興例として、そして復興により住民たちの強い絆と意思の強さを与えた

提供写真

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