マチュ・ピチュの歴史保護区(ペルー)

Олег ДьяченкоによるPixabayからの画像

※アイキャッチ画像は版権フリー画像「Олег ДьяченкоによるPixabayからの画像像」

Historic Sanctuary of Machu Picchu ( Peru ) OUV(i)(iii)(vii)(ix)

1983年世界遺産登録

■500年以上経った今なお残るインカ帝国の跡

ペルー南部のアンデス山地、標高2430mの尾根にある都市遺跡マチュ・ピチュ。1450年ころに造られたとされる、インカ帝国の都市遺跡です。

インカ帝国は同じく世界遺産になっている「クスコの旧市街」を中心としたケチュア人による国で、13世紀頃から興ったとされます。

しかしスペイン人の征服によってそのほとんどが破壊され、インカ帝国の遺構は限定的でした。クスコもそんな破壊された街になりましたが、標高高くかつ山頂にあったマチュピチュは気づかれにくく、放置されたあとも発見には至らなかったため、良い保存状態が保たれたようです。一説には住民たちが自ら火を放ち、スペイン人の所有になることを避けたともされています。

時は流れて1911年、アメリカ人歴史学者のハイラム・ビンガムが伝説の都市を求めて山へと向かい、手つかずで500年以上放置された遺跡を”発見”し、一躍注目を集めました。

注目すべき点は一つに、隙間が無いほど精緻に積められた石(花崗岩)造りの建築によって、多数の水路が張り巡らされ、灌漑技術に優れていたことです。これによって川がない山頂での飲み水の確保や、トウモロコシやイモ類の栽培も可能にしました。絶壁に近い山の中腹には棚田のような畑が広がっています。

もう一つの点として、街道の整備が挙げられます、インカ道と呼ばれる、四方に張り巡らされた道によって交易を可能にし、その総延長は地球1周分になるほどだとか。これによって山頂では手に入りにくい物資や情報を得ていたとされます。

LoggaWigglerによるPixabayからの画像  石積の技術 隙間が一切ない

■世界遺産への道筋には日本人の活躍あり

1911年に発見されて世界の注目を浴びたものの、周囲はまだ何もない山の中の山。一方当時ゴム産業で世界中の企業が南米を開拓しようと躍起になっていた時代に当たり、日本人も訪れていました。

特に1917年に移民として渡った野内与吉は、南米各地を回ったあとにペルーの国鉄に入り、鉄道の開拓に力を注ぎました。そして行きついた先がマチュピチュ。

当時は電気もない街というより村で過ごし、初代村長として活躍、電気や水道を普及させるという大事業を成しました。その後は村初のホテル「ホテル・ノウチ」を開業、郵便局や裁判所にも尽力し、村民の力になったことで現地ではとても有名だそうです。

そんな与吉の息子、ホセ野内もまた父の跡を継ぎ、村長を務めたのが1981~1983年にかけて。ちょうど世界遺産に登録された際にも、ユネスコへ観光資源のPRなどに尽力されたそうです。

そんな日本から地球の真裏にあたる遠い異国の地で活躍した日本人。世界遺産にはマチュピチュの遺跡だけでなく、アンデスイワドリなどの絶滅危惧種も含めた自然の宝庫になっている点も含めて、複合遺産として登録されました。

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